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「遠いデザイン」第16話

 リビングボードの上のケイタイが鳴りだした。時計の針は深夜零時を指そうとしていた。ソファーから立ち上がり、ケイタイに手を伸ばすと、呼び出し音が止んだ。
 開いた画面には090ではじまる着信番号が表示されていた。また、あの番号だ。いつも二、三回、短く鳴って切れてしい、一度もつながったことがない。七瀬はケイタイを畳んでソファーに戻り、氷だけになったグラスにウイスキーをつぎ足した。

 最初は気にもとめなかったが、それが一週間も続けば話は別だ。明らかな作為を感じた。
 いったい誰なんだ?
 最初、亮子の顔が浮かんだが、第一、番号が違うし、彼女がケイタイの番号を変えるとは考えにい。

 まさか、亮子の恋人じゃないだろうな? 告白の一件を根に持ってこんな嫌がらせをしているか? でも、たとえ、亮子があの一件を話したとしても、ケイタイの番号まで教えるだろうか? 男の方から問い詰めたんだろうか? それとも、JAの職員から聞き出したのか? ということは、亮子の恋人もJAの職員なのか・・・・・・

 七瀬の憶測は果てしなかった。ただ、彼には、発信元に電話を折り返す勇気はなかった。電話のたびに、あの時の亮子の顔が浮かんできた。搬入口にじっと立っていた亮子の目は、七瀬に軽蔑を告げていた。

 いっときの衝撃と困惑が去って、冷静になった彼女の目に、自分が人間性すら疑われる男として映ったのは当然といえば当然だ。妻子を安々と裏切って、若い女に色目を使う男への軽蔑か……。彼女が行き着いた感情の終点には軽蔑しか残らなかったんだ。そして、自分が手頃な浮気相手とされたことへの怒り、つまり、プライドも傷つけられたんだろう。

 三杯目のロックが空になった。ひどくすり減ってしまった七瀬の神経は、アルコールの力を借りてゆっくりとこの現実から離陸をはじめる。ひとたび羽ばたいた想像の翼にもう着地点はない。

 それとも、あの目は悲しみを伝えていたのか?
 七瀬の心にまた違う亮子のイメージが生まれた。

 そうだ、一度は告白しておきながら、それっきり何もアプローチをしてこない、亮子はそれが不満だったんだ。それに落胆していたんだ。そこには年齢とか妻帯とか不倫とかという問題は存在すらしていない。彼女は物足りなかったんだ。そうだ、そうに違いない。オレの中途半端な態度、それこそ最も罪深い裏切りだったんだ。

 亮子の声が聞こえてきた。
『あの告白は、本当だったんでしょう? そうなんでしょう?』

 七瀬は反射的にソファに転がっていたケイタイをつかんだ。全身を巡るアルコールの痺れが指先に出ていたが、彼は一気に発信した。今まで押せずにいたその番号へと。

『ちがうんだ、川奈さん、最初からつきあおうなんて思っちゃいない。ただ、キミが喜んでくれると思ったんだ。ただ、それだけだったんだ』
 電話はつながった。しかし、聞こえてきたのはザーザーという混線したような音だった。耳を押し当てても、人の声らしきものは何も聞こえてこない。

 相手は電波が届きにくいところにいるのか?
 七瀬は通話を切ってソファに身を横たえた。開けていられないほど瞼が重かった。上階は誰もいないみたいにひっそりと静まり返っている。

                ※
 それから、七瀬は何度かその番号に電話してみたが、聞こえてくるのはきまってザーザーという混線音だった。それは高低を伴って、時には波の音にも、時には風の音にも聞こえた。何度かケイタイを耳に押し当てているうちに、どこかでこんな音を聞いたことがあるような気がしてきた。それもずっと以前に。

 ほのかな郷愁すら誘いはじめた音。だが、記憶の糸がなかなかたぐれない。それから一週間ほど経った日曜日のことだった。近くの短大でフリーマーケットが催され、七瀬も子供を連れて出かけたのだが、そこでがらくたの山に埋もれていた黒いダイヤル式の電話機を目にした時、ぼんやりしていた記憶が鮮明になった。今から二十年以上も前のあのアパートのことが……。

 当時、七瀬は大学生だった。下宿していたアパートは風呂もついてない粗末な木造の二階屋だった。ただ各階の廊下の奥には当時としては珍しく共同電話が置かれていて、ベルが鳴ったらアパートにいる誰かが要件を取り次ぐきまりになっていた。
 ちょうど二階の突き当たりの部屋を借りていた七瀬は、きまってこの取り次ぎ役になった。ドアをノックして中から何の返答もなければ、伝言をメモした紙をドアの隙間に差し入れたりもした。そして重量感のあるその黒い受話器を耳に当てるたびに、きまって混線したような音が流れてたきのだ。

 七瀬は、当時つきあっていたほかの大学の女の子と、その混線音の中でよく長い会話をしたものだった。『学園祭はいつからなの?』『今度、港に大きな外国船がくるんだ』『あと必修どれくらい残ってる?』『就職先、どこを回ったの?』。そっちの電話からも雑音が聞こえるのかとその子に尋ねたことがあった。『いいえ、そんなものは聞こえない。ただ、あなたの声だけがはっきりと聞こえる・・・・・・』

 ビニールシートを広げて、古着やら、アクセサリーやらを売っている短大生を目にしていると、七瀬の脳裏にも二十数年前の日々が巡ってきた。中でも、在学中、四年間住み続けたその古いアパートはいまだに彼の遠い記憶の中心に建ち続けていた。

 あの若かった自分、大学生の頃の自分に戻って、亮子の前に現れたら、彼女はどんな顔をするだろう? どんな目でオレを見てくれるんだろう? 
 七瀬は無性にあのアパートを訪ねてみたくなった。すでに二十年以上も前のことだ、あんな古いアパートなど、とっくに取り壊されているに違いないと思いながらも。

 その夜も、また、あの電話が鳴った。短く鳴って止んだ呼び出し音は、自分をその場所へと誘っているようにも思えた。七瀬は遠い日の記憶を追うのがやめられなくなった。残り少ない夏に過ぎ去った季節の灼けるような匂いが重なった。
 

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