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「遠いデザイン」第3話
高台に新築されたチャペルの扉の奧には、新郎役となるホテルの従業員がすでに待機していた。レストランのウエイターをしているその男は、自分は背の高さで選ばれたとか、冬でも日焼けしているのはサーフィンのおかげだとか、初対面のスタッフを前に屈託のない笑顔を見せたが、いざカメラが向けられると、急に顔から強ばりが消えなくなった。
対照的にモデルの女は、カメラセッティングの合間に起こる談笑の輪に加わろうともしなかったが、ひとたびスポットライトの中に入ると、完璧な演技を見せた。
女の笑顔は不自然すぎるくらい自然であり、均整のとれたその肢体は、まだ手垢のついていない聖書台、リードオルガン、銀メッキの十字架といった調度品を生き生きと際立たせるように統べて、ファインダーの奧のワンシーンを神の啓示のように切りとった。
午後はホテルの支配人が立ち会うこともなく、撮影はスタッフたちの裁量で進められていった。35ミリのスナップショットに移ると、ぎこちないままの新郎役が外されて、モデル単独のカットが続いた。肩を落として長椅子に沈みこんだ白いフロックコートの背中に、林田が遠慮がちにねぎらいの言葉をかける。
二方向からのスポットライトがモデルの顔を平坦に切り取っていたが、レンズを通して見る女の表情には徐々に豊かな陰影が刻まれていくのが小田嶋にはわかった。彼は次第に本数が増す撮影済みフィルムをポーチにしまいながら、そこに巻かれて眠る映像が目を覚ました時の出来映えを確信した。
チャペルに続いて、邸宅のリビング風にセットされたホワイエ、バーテンダーを入れたカクテルコーナー、少人数レセプション向けのパーティールームと、撮影はハイペースで進み、後は婚礼料理を残すだけとなった。
施設のリニューアルを機に、婚礼料理にも創作性という課題が与えられ、今日は和洋中、全てのコースが一新され、カメラの前に並ぶことになっていた。撮影会場には会食用の個室が割り当てられていたが、いくら厨房が隣りにあるといっても予定より三十分も早い到着となり、まだ料理一皿もできあがっていなかった。
「ここらで一息入れましょうか。調理場の方たちを焦らせてはいけませんし、なんといっても、まだ予定時間…前!なんですから。いやぁ、こんなことは初めてですよ。撮影といえば、遅れるのが当たり前と思ってましたから。そうそう、モデルがよかったんですよね。なんといっても!」
林田が声を張り上げるが、当のモデルからは何の返答もない。宙に放られたままの言葉を気の毒がったのか、「彼女はただ今、お着替え中です!」と、マネージャーがおどけた調子で受け取って、笑いの渦が起こる。スタイリストが筒状に巻かれた敷き紙を床に広げて、料理撮影に使うものを小田島と相談しながら決めていく。
モデルの女は着替え室に充てられた一室でウエディングドレスを脱いだ。背中に腕を回しジッパーを引いた時、さっき自分が口にした片割れの姉のことが頭をよぎった。今まで意識に昇ることのなかったその存在が、モデルの仕事をはじめるようになってから気になりだしていた。
この春、二十歳の誕生日を迎えるモデルには、今では姉が本当にいたのかどうかさえはっきりとしない。全ては自分がつくりだした妄想じゃないかとも思う。
ただ、ぼんやりと残る場面があった。幼い自分がの前で、バスタブの水の中に手を入れて何かを押えつけている父の姿だ。
バスタブの内側からはゴボゴボという水音が立ち上がっていた。遠い記憶は若かった父親に姉をバスタブの底に沈めた殺人者としての像を結ぼうとしているのだろうか?
女はウエディングドレスをハンガーに掛けて、嵌め殺しのガラス窓の前へと立った。窓外にある大きな風景は死んだように動かない。冬の海が彼方の空へと続くばかりだ。女はふとガラスの中に小さな黒い点々があることに気づき、それを指で擦ってみた。それが汚れではなくて、海上を旋回する鳥たちの遠影であると気づくのに視線を遠くへ投げる必要があった。空と海の青さの中で、時々、その黒い点々はかき消えそうに見えた。
女がガラスに描く指のラインは鳥たちの飛翔の範囲をやすやすと超える。
べん毛も見えないほどの小さな点にすぎないが、と女は考える。その黒い点の動きはまるで精子のようだ。でも、いくら探し続けても、目指すべき場所に辿り着くことはないだろう。
波の音も、光の温もりも、ここからはわからないが、ただ、海上を流れる冷気のようなものがあって、その中で鳥たちの羽ばたきだけが熱を帯びてくる。今、群を離れた一羽の大きな鳥の影が、黒い実感として女の目前を飛び去っていった。
扉がノックされている。たぶんマネージャーが呼びにきたのだろう。女はドアの方を振り返り、旧式の鏡台が置かれた縦長の空間を進む。開け放しのクローゼットの中には、ハンガーに掛けられたウエディングドレスがまだ微かに揺れていた。
七瀬は携帯電話をかけるふりをして会食個室を出た。手持ちぶさたからスタッフたちがはじめた同業者の男の成功談が気詰まりだった。その男の噂は七瀬も度々耳にしていた。独立後わずか三年足らずで十数名の社員を抱える制作会社をつくりあげた、彼よりひと回りも若いライターだった。
十五年前、東京の小さなプロダクションを退社し、故郷のT市で独立の旗印を掲げた七瀬だったが、彼には最初から自分の仕事をビジネスとして捉える野心がなかった。世間が好景気に浮かれていた時期もカヤの外に置かれていたし、その分、不況の波が押し寄せてきても、そうひどいヘコミも実感しなかった。組織に縛られないフリーの気安さに流されるまま、十五年という歳月が過ぎたが、そのあいだ彼は何一つ築こうとしてこなかった。人を雇うための基盤も、営業用の人間関係も、客を納得させるノウハウも、ある種、専門家としての風貌さえも。
いや、彼には見つけられなかったのだ。築くに値する価値のあるものや、確かな約束を交わしてくれるものを…。川の流れのように留まることをしらない広告業界にあって、元々、そんなものは存在しないのかもしれないが…。それでも若いうちは、まだ、たっぷりと残っている電池の残量で未来に漠然とした希望を抱いていた。しかし、そんな時期も過ぎ去って、七瀬は目の前にあるこの現実との折り合いをつけなくてはならない年齢に達していた。
ただ、その種の焦燥感は七瀬だけでなく、同年代の同業者たちの共通項なのかもしれない。たまにそんな連中と飲みに行っても、隣で卓を囲んでいる中年のサラリーマンたちのように快活な笑いがこっちにおこらないのは、根っこにあるものの違いなのだろう。中年臭さと引き換えにした安定感。そんなものに羨望の目が向きはじめる。本気で酔えないことが七瀬から歯茎が見える笑いを奪い去っていた。
マンションの一室をタバコの煙で満たし、明け方まで煌々と光を発している薄汚れた窓。東京帰りといっても、彼が勤めていたのは東京にはアリの数ほどもある広告プロダクションの場末の一社にすぎなかった。うちもやっとライターを雇うまでになったか。社長からそう告げられた初出勤の日から、大学卒業後、ライターの養成講座に通いはしたものの実務経験ゼロの彼の机に、それまで外注に出していたコピーの仕事が全部回ってきた。
仕事が重なると、集中力にすがろうと、カッターナイフやスプレー糊やコピー機の音の絶えないデザイナーのいる仕事部屋から抜け出して、使われていないウオークインクローゼットの中で身を縮めながら、棚板を机代わりにコピーを書いていた。
社員は家族みたいなもの、みんなが個性あるプレイヤーになって欲しいから「アドセッション」という社名を付けたんだと、定食屋で昼からビールを飲んでいた社長の赤ら顔が突然よみがえってきて、七瀬はため息をつく。
廊下の壁にはフレーム枠に入った写真がいつくも架かっていた。それは、このホテルで挙式したカップルたちのウエディングフォトだった。七瀬は廊下をゆっくとと歩く。
人前結婚式での指輪の交換、青空に舞うフラワーシャワー、披露宴でのケーキカット・・・・・・。写真に映るカップルたちの顏は、これまでに起こった様々な出来事を封印して、どの笑顔も一点の曇りもない。
自分の時はどうだったんだろう・・・・・・。そう思ったとき、ふいに後ろから女の声がした。
振り返ると、デニムジーンズを穿いた足の長い女が立っていた。七瀬はそれがすぐにモデルの女だとわからなかった。化粧を落とし、長い髪を無造作におろしたその顔は、撮影の時とは別人のように幼く見えた。
「七瀬さん、こんなところで何しているの?」
モデルの女は、そう言いながらフレームの架かった壁際をゆっくりと往復した。
「ふ〜ん、結婚式の写真なんだ。そうか、これを見て、昔を思い出していたわけか。奥さんが若い頃のこととか」
女は細長い腕を組んで七瀬の目を覗き込む。茶色がかった瞳に思わず吸い寄せられて、七瀬は慌てて目を逸らす。
「もしかしたら、撮影中も、ずっとそんなこと考えてたんじゃないの。真面目に立ち会っているような顔してさ」
嘘だろう。そうはねつけながらも七瀬は思わず身構える。
ウエディングドレスに載っていたこの女の顔、それを、何度、亮子の顔とすり替えていたことだろう……。
「私を見る目、おかしかったもの。そう、どこか虚ろだった。……いったい、誰を想像してたの?」
「それは、キミの自意識過剰というやつさ。確かに何か考えごとをしていたかもしれないけど、たとえば写真につけるキャプションとかをね」
七瀬は冷静さを装ってそう言った。
「そうかなぁ、まあ、他の男たちほどは、いやらしい目つきじゃなかったけど」
薄く形のよい唇から流れるモデルの言葉は、どれも七瀬の想像のらち外にあった。
「七瀬さんて、いつも、こんな仕事しているの?」
「こんな仕事? ああ、こんなオヤジが、キミみたいな若い子が読むような結婚情報誌のコピーを書いてるのが、おかしいんだね」
「七瀬さんの自意識だって、なかなかのもんじゃない? 私は、そんな意味でいったんじゃない。ただ、もっとカタいコピーを書くイメージがあったのよ」
「地方で広告の仕事をしていたら、仕事のえり好みなんかできないよ。キミだって同じことさ」
膳台を抱えた調理場の男たちが女の肩越しに見えた。撮影用の料理ができたことを知り、会食個室に戻ろうとする彼にモデルが声をかけた。
「じゃあ、これから七瀬さんに教えてもらおうかな。広告業界での生き残り方について……お昼の時には、じゅうぶんにお話し、できなかったし」
女は「め・い・し」と言って手を差し出した。
ジャケットの内ポケットを探ったが、名刺入れが見当たらない。一つ前のカットで、花屋のオーナーと名刺交換して、テーブルに置き忘れてきたことに気づき、それを取りにエレベーターへ向かう。彼の後ろ姿を見てモデルは微笑んだ。
膳台を抱えた若い調理場の男たちが、廊下の奥から歩いてきたモデルに気づいて足を止める。剃り残しの髭が目立つ青白い両頬をすぼませて、その中の一人が野卑な口笛を投げつけた。