「遠いデザイン」第14話
「えっ、チラシの改訂? ……それって、課長の方で対応できないんですか?」
逃げ腰になっている七瀬を不審に思いつつも、三谷はこのところのプレゼンで負け続けている苛立ちが言葉の端々に滲み出てくる。
「だから、さっきから言ってるじゃない! コピーの追加があるんだよ。それも含めて、七瀬ちゃんにお願いしたいってわけ!」
朝一番に鳴った三谷の電話。用件は八月一日から三日間に渡って開催される地場産品フェアにJAが出展を決めたこと。それに伴い以前納品した印刷物をフェア用に改訂したいという旨だ。
しかし、彼をうろたえさせたのはそんな用件以前のことだ。JA、と聞いた瞬間によみがえった亮子の生々しい声の感触。だが一方的にまくしたてる 三谷は、電話を切る前にさらに七瀬を追いつめる言葉を吐いた。
「あっ、そうそう、今回も担当、亮子ちゃんだからね。七瀬ちゃんも、やりやすいだろう? そっちから彼女に電話を入れて、近いうちにチャチャッとすませてきてよ」
いったい、どのツラさげて彼女に会いに行けというのか。もはや取り返しのつかない三日前のあの告白。いくらのぼせ上がっていたとはいえ、恥知らずにも、よくもあんなことが言えたものだと、七瀬は何度繰り返したかわからない自責をまたぶった。
あの夜の電話が彼に残したものは羞恥心と惨めさでしかなかった。それが徐々に後悔へと変わり、今では恐怖心が彼を支配していた。あの密告が周囲にバレはしないかという怯えだった。
今の電話の様子では、まだ三谷の耳には入っていないようだ。しかし、JAの方ではどんな事態になっているかわからない。亮子のことだ、オレの密告を簡単に周囲に漏らすとは思えないが、それでも彼女にも気心の知れた同僚というものがいるはずだ。何かの拍子に口をすべらすかもしれない。そんなことになれば噂がネズミ算式に広がって、JAの全ての人間が知るところとなってしまうだろう。そして、得意先の女を誘惑したという事実は、やがてメディア通信社の耳にも入り、この狭い地方の広告業界を駆け巡っていくだろう。そうなれば仕事が干されるのは目に見えている。ここは腹を括るしかない。こうなったらオレから涼子に電話かけて状況探ってみるしかない。
さすがに声が震えたが、電話に出た受付嬢も、それを取り次いで亮子を呼びだしてくれた職員も、今までと変わった様子はなかった。
電話口の亮子の声はさすがに沈んでいた。七瀬は、あの夜の電話は深刻なものではなかったんだと偽る気持ちが働いて、わざと明るい口調で三谷から言われた用件を切り出し、打ち合わせの日時を決めた。
もちろん、告白の件には一切ふれなかったし、亮子も短く受け答えているだけだった。受話器を置いた時、額に冷や汗が滲んでいだが、何ごともなかったかのようなあっけらかんとした態度をとったことが、彼女への慰めになったかどうかはわからなかった。
数日後、七瀬はあの懐かしいJAの打ち合わせブースで亮子と再会した。口元に弱々しい微笑みが浮かびそうでいて、何かがそれを消し去っていく。彼女には以前のような明るい輝きのかけらもなかった。目が合うのを避けるように始終うつむいていられるのもつらかった。
改訂の内容はチラシの下段にフェア限定の割引クーポン券を刷り込むだけのものだった。この程度ならこんな気まずい対面を繰り返さずにすみそうだ。
入る時に緊張したJAの店内も七瀬に対して敵意のようなものを見せてはいない。亮子はオレの告白を自分の胸の中にしまってくれたんだ、と少し安堵した。そしてメモ用紙に簡単なスケジュール表を書き付けて彼女に渡すと、そそくさと席を立った。
五日後、チラシの改訂紙を届けに行った時、亮子のこわばりは七瀬の目に余るようになっていた。たまたまその日はブースの隣席に馴染みの男性職員がいて、三谷が関西系芸能人の一人に似ているとか、突拍子のない話で盛り上がったが、亮子だけは終始、口を閉ざしてうつむいたままだった。
それは自分の浮かれた態度に対する抗議に思え、七瀬は亮子につけてしまったキズの存在にあらためて気づかされる。
実はあの告白の後、初めて亮子に会った時、元気を失くしていることに秘かに満足した。理由はわからないが、彼女は悩んでくれている、元気をなくしてくれている、それは自分の告白を真摯に受けとめてくれた証しだと思ったのだ。
もし、彼女が以前と変わらない態度で目の前に現れたなら、どんなに落胆していただろう。そして、そんな見せかけの明るさ、快活さを装えない一面がまた変な意味で亮子に対する信頼を深めていた。
ただ、事態を楽観視していた七瀬にとって、その日目にした亮子は回復の見込みのない重症患者のように見えた。彼は彼女をどこに運んで、どんな手当をしてあげたらいいのか見当がつかなかった。
亮子は、少しはオレに好意のようなものを抱いてくれていたんだろうか? 恋愛対象とはいかないまでも、オレの告白で迷いのようなものができたんだろうか?
いや、そうじゃない、きっと、彼女は驚愕したんだ。思ってもみない男からの愛の告白。それは、まるで横道から飛び出してきた車に当て逃げされたようなものじゃないか。
まてよ、もっと単純に、彼女はただ仕事に支障が出ることを恐れているんだろうか?
想像はあくまでも想像だった。しかし一方で、七瀬は亮子の善意というものを信じたくもあった。彼女の落胆がじつは自分の愛に応えてあげられないその一点に根ざしているのだとしたら、それはもう何も問うことのできない善意そのものに他ならないからだ。
七瀬の考えはとりとめがなかった。そして、朝、ケイタイの画面を開くのが怖くなった。もし、そこに亮子からのメッセージが届いていたとしたら・・・・・・。
彼は自分の回りに守るべきものがいっぱいあることを思い知らされた。そして、一刻も早くこの危機が過ぎ去ってくれることだけを願うようになった。一方、亮子に対しては罪悪感だけが残った。自分だけが無傷で血を流すことのないstory。そんな刃物のようなものを振り回して、無防備な彼女を傷つけてしまったことに。