見出し画像

百合樹 第六章馬鹿だねって言われたって ② 絶命

第六章
馬鹿だねって言われたって

何を自分の信念に据えるべきか。
正しいと信じたものを否定されることは往々にしてある。
が、他人の否定を信じないのに肯定だけ信じるというのはいかがなものだろう。
どちらも信じられないのであれば、最後に信じるべきはきっと。


絶命

季節をニつほど遡る。

いや、季節とはいったものの、どうやら最近、日本の四季は境界が曖昧になりつつあるらしい。
回りくどいため要すると、コートを着ていなければ外を歩けなくなってきた。
そんな寒い夜まで遡る。

これからの数ヶ月間、試験勉強という難敵に、共に対峙する戦友と校舎を出た。
まだ十二月も初旬のはずであるが、こうも寒いとは堪ったもんじゃあない。
二月になろうものなら寒すぎて生きていられないのではないだろうか。
とはいえ、歴史上、本当に寒さで命を落とし絶滅したもの達は、こんな風に二ヶ月も先のことなんて微塵も考えられなかっただろうし、こんな小言を交わせている私たちはまだまだ余裕なのかもしれない。

私が彼と話すようになったのはごく最近のことだが、同じ目標を持つ数少ない仲間であり、研究室も同室になったため、一緒にいる時間は割と増えてきたところである。
講座の前には二人で喫煙所に立ち寄ることもしばしば。
彼は、サークル外にいる知人の中で、数少ない愛煙家なのだ。
煙は身体に毒なので吸おうとは思わないのだが、その匂いも、それを吸う人の様もなぜか嫌いではない。
愛煙家というものは、煙を吐きながら、稀に、深いことを言ったり言わなかったりする。
それもきっと、嫌いになれない理由の一つなのかもしれない。

私たちは、講座が終われば、たわいもない会話をしながら帰る。
記憶にも残らないようなどうでもいい話から、近い未来のこと、どんな道を選択して、何を目指そうかなんてことまで。
大学生活の内、三年間を修了し、私たちには次の道を模索せねばならない時が段々と迫っていた。
気持ちが大きく揺れたり、目標を見失っては精神が乱れたりしがちなこの時期を、彼と過ごしていることで、下手にぶれることなく、また、過剰に張り詰めることもなく過ごせている。

彼とたわいもない二ヶ月ほどを過ごしたところで、やっと前述した三度目の春休みに返ってくる。
この春休み、某生物兵器の力も相まって人と顔を合わせることは叶わなくなったと伝えたが、実は、戦友の彼とは定期的にオンライン上で顔合わせをしている。
殊更、この時期に誰かと相談があるとすれば、彼との連絡ばかりだ。
研究室でどのように立ち回ろうか、勉強の進捗はどうだ、どこの企業にどうアプローチしようか。
この時期特有の話題はほとんど彼としている。

互いを意識して努力していただろうし、互いに支え合っている部分はあっただろう。
(彼に直接聞きはしないが、少なくとも私は、この文章を書いている今もそう思っている。)

試験前日、いつも通り飄々と冗談を交えながら互いの健闘を祈りあい、そのまま本番を迎えた。
当日の私の様子は、すでにご存知の通りであるが、試験後、彼とは互いにやりきったことを讃えあって、ただ結果を待つのみ、先は神のみぞ知るといった言葉を交わし、不安を紛らしていた一面があったことも、また実のところである。

試験から数日後、研究室で久々に彼と直接会うことになっていたのだが、その前日、電話が鳴る。
彼から改まって電話があるとは驚いたが、話の内容はいつもと大して変わらない。
『明日は研究室に行くつもりか。』
『雨だったらだるいな。』
『とりあえず最初の試験が終わったな。』
『通過しているかはわからないけど、全部落ち着いたら飲みにでも行こう。』
そんな、未来ある話をしたことばかりが記憶に鮮明に残る。



翌日、彼は亡くなった。



理解できないかもしれない。
あまりに唐突な文章に追いつけないでいるかもしれない。
彼は、亡くなったのだ。
私は、理解していたはずなのだ。
命というものはどこかで絶えるものである。
それがいつになるのかは誰にもわからないし、とにかく、生きている瞬間こそが今なのだ。

じゃあ、未来はどうなるのだろうか、今を後悔しないように生きる。
これはもちろん必要なことなのだ。
生き急いでいると言われるかもしれないが、のらりくらりとしていては大切な今を逃してしまう。

『未来は、どうだ。』

望んで手に入るものなのだろうか。
想い一つで変えられるものなのだろうか。
一歩踏み出した先に否が応にも待ち構えている。
今この瞬間を、自分の思うように、選択一つで変えているはずなのに、迎える一寸先は、誰にも知り得ない闇なのだ。

このとき初めて、命の在り方の危うさをあまりにも不条理だと感じ、これまで教えられてきた、未来を変えるために今を生きる、という言葉の矛盾を恨まずにはいられなかった。
私は、大きな喪失感と憤りを感じると共に、一つの知見として、人は常に絶体絶命の淵に立っていたのだという恐怖を得た。

生きていたい。
私は、生きている。
幸せだと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?