
百合樹 第五章まあこんなもんだ、これでいいんだ ① 普通
第五章
まあこんなもんだ、これでいいんだ
相手と対峙するとき、相手がなにを考えているのか、私をどう思っているのか。
時として、相手の持っているものが全くわからないことがある。
目に見えないそれは、一体どこに存在するのだろうか。
互いの手の内ではない、二人の間、ひとりとひとりの隙間には一体何があるのだろうか。
普通
彼女とのそれからの数ヶ月間は、多分、ドラマで言うところのダイジェスト。
二人でどことなく出かけては時間を過ごし、次の約束をし、また出かける。
ドラマのシーンで言えば、あんなところに行ったね、あそこにも行ったね、なんて男女が語り合い、ナレーションベースで静止画が流れる。
視聴者からすれば時間をかけて見るには耐えない様な、何の変哲もないデートの繰り返しなのだ。
恋人同士の過ごし方の中で、平凡も平凡といった時間の過ごし方である。
具体に何をしたのかという問いに、あえて答えるのならこんな感じである。
城下町に行って、歴史を感じながら芝生で寝たり、都会の街中を散歩し、お店を見て回っては芝生で寝たり、一泊二日と時間をかけて大阪の街を見て周り、食べ歩きをしてサメを見ては、芝生で寝たりする。
といった具合に、聞けばよくあるごくごく一般的なデートだと答えるだろう。
一般的なものとはいえ、実際に経験している私から言わせれば、どれも平凡な出来事ではない。
これまでの人生において、女性と二人で城下町の芝生に寝たことはないし、ましてや、女性と二人でお買い物をして、都会の真ん中の芝生で寝転がるなど考えたこともなかった。
極め付けに、彼女と泊まりがけで旅行に出かけ、遠い地で芝生に寝転がるなんて、特別な出来事以外の何者でもないのだ。
(そろそろ芝生のお話がくどいなと感じる頃だとは思うが、私にとって芝生で寝転がる行為はとても大切なことなのだ。許して欲しい。ここまで読んで下さっているあなたなら、分かってくれるのではないだろうか。)
他人から言わせれば、デートするなんて恋人同士では当然のことであり、おでかけをするなんて当たり前のことなのだ。
恋人がいるのなら二人一緒にいて、会って話をして、会えなくたって連絡を取る。
どうやら私の周りではこれを
『ふつう』
というらしい。
私たちも初めは、そのふつうに則った動きをしていたわけだが、それは、どうにもこうにも長いこと続けられるわけではなかったのである。
人間である以上、お互いに普段の通りとされる生活の形、ある種人間の型の様なものが存在しているのだ。
慣れ親しんだ自分のペースがあり、それに準じて日常を過ごしている。
私と彼女にとって普通という言葉は
『普段の通り』
という意味を持つのだ。
ひとりとひとりの人間が約束をして、互いの時間を消費し二人で過ごすという行為(世間一般で言うところのデート)をすることは、私たち二人にとって、普通とは言い難い、特別な出来事なのである。
これは私が長い時間、実に数ヶ月、いや一年ほどかかって気づいたことなのだが、二人だけで過ごすことは互いにとって特別な行為であり、それ故に、この上なく大切な時間であることに間違いはない。
が、しかし、同時に普段通りでない時間というものは、彼女にそれ相応の気力を使わせてしまう。
普通なんてとうに超えたものだったのである。