百合樹 第六章馬鹿だねって言われたって ③ 転回
第六章
馬鹿だねって言われたって
何を自分の信念に据えるべきか。
正しいと信じたものを否定されることは往々にしてある。
が、他人の否定を信じないのに肯定だけ信じるというのはいかがなものだろう。
どちらも信じられないのであれば、最後に信じるべきはきっと。
転回
私は、万事無事とはいかず、道中戦友を失ったりしたが、なんとか試験勉強という長い戦いを終えた。
以降、面接が残ってはいるのだが、筆記試験さえ乗り越えてしまえばなんてことはない。
余暇を大量に得た私は、何をするでもなく部屋中をゴロゴロと転がり回る。
戦いは終わったにも関わらず、心のどこかに何かが引っかかったまま荷が降りない。
原因も大方予想はついているがあえて考えないでいる。
ほどなくして、私は再び小旅行を繰り返す日々に返ってきた。
身支度をして、決まった時間に家を出る。
あい変わらずいつもの波に呑まれながら目的地を目指す。
何年も揺られ続けたおかげだろうか、今では、一波、二波、三波とも上手く乗りこなせるようになった気がしている。
同じことの繰り返し、どんな時もこの波の動きは変わらない。
私を取り巻く環境は変わっているはずなのだが、世の中は変わらないままでずっと同じ顔をしている。歩き始めれば見渡す限りに大自然だし、研究室は遠い。
数年前は何を思いながらこの道を歩いていたのだろうか。
何も考えていなかったかもしれないし、あい変わらず遠すぎるなんてボヤいていたかもしれない。
黒いティーシャツの後ろをドキドキしながら歩いたことだってある。
泣いていた日もあったし、やけに苛立っていた日もあった気がする。
友人や彼女と笑いながら歩いたりもしただろう。
ふと、そんなことを考えながら歩く私の目頭は、溢れ出る何かを止められないでいる。
だが、さほど他人の目を気にすることはない。
研究室に着いても誰かがいるわけではないのだ。
自席に座り、季節にはまだ早い温かなココアを入れる。
いつも通り新聞を広げ、照明を落としたままに優雅な時間を過ごす。
何の気なしに目を向けた空席。
この部屋の北東に位置する角席には、物一つ無い机と座主のいなくなった椅子がある。
溢れ出た何かはそこから来たのだろう、心のずっと奥の方からやってくるのだ。
私は、あの日からずっと、何か大きな宿命を背負った様な気がしてならない。
いや、元々背負っていたのだが、それに気付かされたという方が正しいのかもしれない。
彼の分も試験を頑張るとか、社会人になって恥ずかしくないようにとか、そんなことではなくて、もっと根本的に、人たる故の芯の部分の話。
私は生きなければならないのだ。
死ぬまで生きなければいけない。
死ぬまで死なないように生きるのだ。
泣いて、笑って、愛して、守って、焦って、迷って、望んで、踏み出して、悔やんで、願って、憎んで、抱いて、祈って、笑って、また泣いて
色んな感情と向き合いながら、与えられた命を全うするほかに道はないのだ。
その道の途中、自分の中にあった大切な命がまた一つ消えてしまったが、大切なものは消えていくばかりだろうか。
自分が死ぬまでの道中、側から消えていくものがあれば、同時に生まれてくるものもあるらしい。
ただ、自分の世界から消えたものが人の命だとして、そこに新しく生まれるものが必ずしも命の形をしているとは限らない。
彼の死から転じて、私の中に生まれたものは、執着にも似た強い愛情である。
私の中の大切を失いたくない。
大切な人達が側にいて、側でなくともどこかには存在していて、あわよくば、今一番に大切な彼女が隣に在り続けるまま、そのままに世界が回っていて欲しい。
そう願わずにはいられなかったのだ。
ようやく研究室の扉が開き、小さな影が顔を出す。
どれだけ幸せなことか。
『おはよう。』
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