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百合樹 第二章誰かにとって、たかがそれくらいの ⑥ 特別

第二章
誰かにとって、たかがそれくらいの

時間は全ての人に平等に与えられるものなのだ。
だがしかし、妙に短く感じてしまうあの瞬間はなんなのだろうか。
本当に時間が早く進んでいるのだろうか。
はたまた、思考が時間に追いつくまいとしているのだろうか。


特別

日付にして四月三十日。

相変わらず、耳元で響いている爆音を片手で制し、外も未だ薄暗い中で、いつも通りに抜け殻を畳む。
そう、いつもと変わらない朝である。
今朝のどこが普段と違うのかと問われれば、父よりも早く起きたことぐらいだろうか、これぐらい早く起きねば約束に間に合わないのだ。

薄暗いうちに起きて、変わらず薄暗いままに家を出る。
夜とも朝ともどっち付かずの外の空気は、私に非日常を感じさせるが、実は、この空気は毎朝漂っているものであり、何も特異な現象の中にいる訳ではない。
どうやら今日は、私が、日常の中のこの時間を、たまたま切り取って外に出ただけのことらしい。
ここまでは、普段と何も違わない、選択一つで起こりうる日常の中の一幕。

電車に揺られる最中、彼女からの連絡をもってして、今日がただの一日ではないことを認識する。
状況を改めて理解し、今になって脳内に緊張が走り始めているのを感じた。
これから、バスに揺られ東京を目指す訳だが、その道中、時間にして六時間、片時も離れず、横に彼女がいるのだ。

互いの素性もよく知らぬ異性二人で東京に向かう。

聞いただけでも
『本当に大丈夫なのか。』
『彼女は変な男についていって騙されているのではないか。』
と心配をしてしまうようなシチュエーションである。(無論作り出したのは私なのだが。)
彼女に会ってからも、何を話そうか、気まずくなりはしないだろうかと不安でいたのだが、バスが走り出してしまえばなんて事はない。
緊張のおかげもあって(ここはおかげと言っておくが)、口がよく動くのだから安心した。
自分のことをたくさん話し、彼女のこともたくさん聞いた。

サービスエリアでお昼御飯のパンを買い、会場に昼過ぎに到着して、道端に並んで座って食べる。
パンが硬くて噛みきれないとか言いながら、楽しく食事をする。
その胸中、ここが憧れのバンドが音を鳴らす会場なのかと感心し、日本武道館と書かれた大きな垂幕を見ながら、今日を迎えられてよかったと、今の幸せを噛み締めた。

まだ開場には少し早く、二人で辺りをふらつき、立ち寄った城跡から、芝生が青々と映える大きな広場に出た。
私は、芝生に寝転がってやろうとして、荷物と腰をおろしたところで、ふと横を見る。
驚いた。

彼女は私より先に芝生に寝転がっている。
私は、奇しくも彼女に続く形で芝生に寝転んだ。
芝生が好きで、見つければ寝転がることが多いのだが、同行者に先を越されることはまずもってない。むしろ疎まれる。
彼女の大の字を見たその瞬間。
人からすれば
『たかがそれぐらいのことで。』
と言われるかも知れないのだが、私は彼女ほど愛しい人はいないと思ってしまった。
たかがそれくらいのことを目の当たりにした私には、青く映える芝生、青く広がる空、そして、大の字に寝るその女性が美しく見えた。

ほどなくして、ざわついた心を身体の奥底に落とし置き、会場に入った。
座席は注釈付き指定席、演者が見えにくい場所だが、位置についてみれば、そんなことはない。
むしろ、彼らに近い特等席である。
二人の場所は、ステージを中心に挟む形で両側に一席ずつ。つまり、私の横に彼女はいない。
これまた特異な話であるが、先程の出来事を思えば、却ってこの方が、緊張なく、純粋に言葉一つ一つを堪能できるかも知れない。

私は、ライブ会場の雰囲気に圧倒され、興奮のあまり、彼女に送ろ文障が誤字だらけになった。

そして、ついにその時が来る。
会場内の光が消え、彼らのシルエットが目前に迫る。夢にまで見た憧れたちがステージに姿を現す。
拍手が。歓声が。止まない。
敬愛するフロントマンに言われるがまま、両手を掲げて一曲目。
ありふれた日常の中のほんのわずか。
時間にして数時間。
体感にして刹那。

私が積み上げてきた普通という名の常識を、特別に変えてしまうそんな数時間が幕を開けた。

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