人に助けを求める段階は過ぎた~かすみ嬢の居場所(58)
休学してから、3週間あまり。今日は梅雨らしいお天気です。
お碗一杯分以上の雨水を、鎖骨の窪みで溜められるくらいになりたいなぁって、ふと思います。試すことはできないけれど。
肩甲骨が天使の羽根ならば、鎖骨の窪みはさながら天使の掬いの手かしらね(掬うと救うの掛詞)(くだらないギャグをごめんなさい…!)
でも、今更ながら掬うって綺麗な日本語ね。英語にしたら途端にこの情緒が失われてしまう。
救いといえば。
摂食障害になり始めた当初はたぶん、助けを求めたいけどうまく求められない分を身体で示そうとしたのかもしれないけれど、今は痩せようとする行動自体が救いだから、痩せる目標を持つこと自体が救いだから。
もう、人に助けを求める段階は過ぎちゃったの。
私の中には「だってあのとき助けてくれなかったじゃない」がまだずっと、くすぶってる気がします。
その頃はね、体重の少なさを理由に「貴女は運動してはいけませんよ、集会に参加するのではなく保健室で休んでいましょう」って言われることが、すごく好きでした。特別扱いをしてもらえることが。守られていることが。私はまだ強くなくていいんだって安心感が。
昨今、強い人間であることを求められ過ぎではと、思うのです。強くて、誰も頼らないまま生きていける逞しい人間。
強くありたいとは思います。でも、逞しくはならなくていいの。まだ、守られていたいときだってある。
私はね、氷細工のようになりたいの。一見硬くしっかりしているように見えるけれど、触ったら溶けてしまい、落としたら割れてしまうような、そんな存在に。
私は、私のために細くありたいの。私は、他でもない私のために、私の考える綺麗な姿を目指しているの。
私の幸せは、私が決めるよ。私は今が幸せ。だから、これで、いいの。
何かに打ち込めるって、何か凄く幸せなことよね。
お腹なんて空いていないのに、お腹空いていないから何も食べる気が起きないのに、それを我慢してるだなんて、そんな決めつけはやめてよ。
少しでも食べたらお腹痛くなることも、その痛さゆえにうんうんと何時間も唸る羽目になることも、知らないからそんなに簡単に食べろ食べろって言うのでしょう。
明日はひさびさに、大好きな年上の方にお会いできるのです。
これまで何度か約束まではしたんだけど、主に私の体調不良で出かけられなくって。だから、今回はお招きすることにしました。
楽しみ?!
どうかきちんとおもてなしできますように。何事も起こりませんよう。かみさま。