開きかけてはしぼむ感覚~山口百恵小論
昨日、いや、一昨日だったかな。レコードプレーヤーの置き場所を変えて、古いアルバムが聴きやすくなった。
きっかけは、郷ひろみだったのだけど、その後、堀ちえみのセカンド「夢日記」や、松田聖子の最初のベスト盤に行き、今日は山口百恵の全曲集を、ターンテーブルに載せた。
もちろん(といっても、僕の嗜好は誰も知らないだろうけど)聴くのは「愛に走って」以前の作品群。「横須賀ストーリー」以降の作品群には、歌手としての興味しかない。女の子としての興味は、初期にしか持てないので。
初期とそれ以後で、どう変わってしまうかは、そのうち書けたらいいな、と思うけど、初期については、平岡正明が「開きかけてはしぼむ感覚」と評した、大人になれずにめそめそしながら、それでいて内なる憧れを頑なに貫こうとする、そんな少女像がたまらないわけです。
改めて、聴き直すと、その「開きかけてはしぼむ感覚」が、痩せ姫の魅力と同じだということに気づかされる。子供の頃と、僕は何も変わってない、ということか。
さっき挙げた、ちえみや聖子だって、結局好きなのは、そういう「感覚」が味わえる時期だし。川端康成が女性に求め続けたのも、そんな「感覚」だろう。百恵版の「伊豆の踊子」が、最も時代が新しいにもかかわらず、他のどの「踊子」よりも、踊子的だと評されるのも、つまりはそういう理由だからに他ならない。
大胆に論じてしまえば、生育環境的にアダルトチルドレンになるかもしれなかった百恵は、芸能界で、不幸な少女と幸福なアイドルを行き来しながら、その宿命を力に変え、自立を達成して、大スターとなっていく。「横須賀ストーリー」以降の作品群は、自立後の収穫であり「愛に走って」以前のほうが、僕にとってより魅力的なのは、本当の葛藤がそこに存在するからだ。
開きかけてはしぼむ感覚。その究極というか、ある意味それを超えてしまった名曲についても、いつか書けるといいな。
(初出「痩せ姫の光と影」2010年10月)
開きかけてはしぼむ感覚って、要は処女性とか乙女らしさだと思うのだけど、じつに見事な言い換えだ。そして、この世で最も美しいものでもある。花のイメージだけを漂わせ、未熟のまま散る。それを実現したのが、岡田有希子だった。