鬼束ちひろはなぜペットを死なせたか

「週刊文春」の先週号で、福岡伸一という生物学者が、飴屋法水の「キミは珍獣(けだもの)と暮らせるか?」をとりあげ、こんな生命論を紹介している。
「生き物に値段をつけ、自分の所有物とする。それは自然物を人工物として扱うこと。だから本来、不可能な行為、さらにいえば狂った行為であると。しかしそこからしか発掘できないものがある。それが生き物を飼うことの意味だと」

十年近く前、鬼束ちひろが「Mステ」で、ペットをめぐるトークをしたところ、動物虐待だとして、抗議が殺到して、謝罪させられたことがあった。夏に飼ったハムスターを、うるさいからと外に出しておいたら、熱中症で死んだとか、冬に飼ったハムスターを、凍死させてしまったとか、メダカを十匹飼ってたのに、水槽を洗ううち、半分に減っちゃったとか。ペットには気の毒きわまりない話だが、故意ではなく、理解不足や不注意による過失というべきだろう。
僕がこの一件で、鬼束に同情したのは……
ペットを飼うことが「狂った行為」だとすれば、それに失敗してしまう彼女はむしろ、まともなのではないか、と感じるからだ。一方、人間を愛せず、ペットしか愛せないという人もいて、川端康成の「禽獣」は、そういう男が主人公。僕は、こういうタイプの人も嫌いではない。

「しかし彼にしてみれば、新しい小鳥の来た二三日は、全く生活がみずみずしい思いに満たされるのであった。この天地のありがたさを感じるのであった。多分彼自身が悪いせいであろうが、人間からはなかなかそのようなものを受け取ることが出来ない」
「だから人間はいやなんだと、孤独な彼は勝手な考えをする。夫婦となり、親子兄弟となれば、つまらん相手でも、そうたやすく絆は断ち難く、あきらめて共に暮らさねばならない。おまけに人それぞれの我というやつを持っている」
(「禽獣」より)

この小説の主人公は、40歳近い独身男で、小鳥を飼うことが、生きがいだ。そこには、若くしてすべての肉親を失ったがゆえに、厭世的にならざるをえず、終生「伊豆の踊子」的なピュアなものしか、愛せなかった、作者自身が投影されている。
ちなみに、主人公のもう一つの趣味が、舞踏を見ること。当時、芥川賞の選考をめぐって、川端を恨んでいた太宰治は、
「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」
と、ケチをつけたが、川端がそれを「立派」だと考えていなかったことは、上記の文章から、十分にうかがえる。彼は、人間を普通に愛せない自分のような存在を「自身が悪いせい」だといい「孤独」ゆえの「勝手な考え」だと、見なしているのだから。

鬼束ちひろが非難されたのは、ハムスターやメダカを死なせてしまったにもかかわらず、今度は猫を飼いたい、と言ったせいでもあったが、彼女もまた、人間相手では埋められない何かを、人間以外の動物に求めたのではないか。僕は動物好きではないものの、鬼束や「禽獣」の主人公には、一種の共感を抱いてしまう。
なお、川端は別の小説で、登場人物にこんな問いかけをさせている。

「昔の聖者達にいたしましても、近頃の心霊学者達にいたしましても、人間の霊魂のことを考えました人達は、たいてい人間の魂ばかりを尊んで、ほかの動物や植物をさげすんでおります。人間は何千年もかかって、人間と自然界の万物とをいろいろな意味で区別しようとする方へばかり、盲滅法に歩いて来たのであります。そのひとりよがりの空しい歩みが、今になって人間の魂をこんなに寂しくしたのではありませんでしょうか。」
(「抒情歌」より)

まぁ、それが人間というものだ。たしかにちょっと空しいが、仕方ない。


(初出「痩せ姫の光と影」2010年6月)

いいなと思ったら応援しよう!