恋は衝動、愛は努力
恋に落ちる瞬間は、突発的な衝突事故のようだ。
私の場合、それはまるで予測不可能な出来事だった。返信が来るたびに心臓がドキッと跳ねるような感覚。スマホの画面が光るだけで、一瞬にしてすべての注意を奪われる。初めて目が合ったあの瞬間、世界のすべてが一瞬止まったように感じた。その後に訪れる心のざわめき。胸が高鳴り、胸が締め付けられるような寂しさに苛まれる。
恋とは、こんなにも激しく、こんなにも私たちを無防備にするものなのだろうか。
恋という感情は、相手の存在そのものに圧倒され、心を奪われる衝動だ。理由を考える暇もなく、ただその人のことが気になって仕方ない。ただ会いたい、話したい、そばにいたい。その感情は圧倒的な力で心を支配し、私たちをその「衝動」の中へと引きずり込む。
しかし、この感情の渦に永遠にとどまることはできない。燃え上がる恋の炎がやがて落ち着きを見せたとき、私たちは次の問いを突きつけられる。
「この人と一緒にいるために、私はどれだけ努力ができるのだろう?」と。
愛とは何か。
それを一言で表すならば、「意志」だと思う。
恋が情熱の炎なら、愛はその炎を絶やさぬように燃やし続ける行為。一緒に過ごす中で、価値観の違いに直面することもあれば、思い通りにならないことに苛立つこともある。
正直に言えば、愛するという行為は、時として面倒くさい。自分一人でいれば、こんな葛藤は抱かなくて済むだろうと考えたくなることさえある。
かつての私は、相手に何かを言われるたびに、すぐに「ごめんね」と謝ってしまっていた。相手の気持ちを傷つけたくない一心で、その場を収めるための言葉を選んでいたのだと思う。けれど、それでは本当に相手と向き合っているとは言えないのだと気づいた。
映画『生きてるだけで、愛。』の中で、主人公がこう言う場面がある。
「私、楽されるとイラつくんだよ。私がこんなにあんたに感情ぶつけてんのに楽されると。あんたの選んでる言葉って結局あんたの気持ちじゃなくて私を納得させるための言葉でしょ。」
このセリフを聞いたとき、まるで心を刺されたようだった。思い返せば私は、相手の感情を正面から受け止めるのではなく、謝ることでその場をやり過ごしていたのだ。表面上は相手に寄り添う姿勢を見せていたけれど、本当の意味で向き合ってはいなかった。もう一つ、心に残った言葉がある。
「私を怒らせない一番の方法はね、とりあえずうなずいてやり過ごすんじゃなくて、私が頭使って考えてるのと同じくらい考えてしゃべって、私がエネルギー使ってんのとおなじくらい振り回されろってことなんだよね。」
この言葉を聞いて初めて、自分がどれだけ「楽」をしていたかに気づいた。相手が感情をぶつけてくれるというのは、ある意味で信頼の証なのだ。それに対して、自分も同じだけエネルギーを使って応えることは愛だと思う。
恋と愛の違いを知ったとき、私は自分自身の変化にも気づいた。かつては、ただ相手と会いたい、そばにいたいと思うばかりだった。だが今では、相手が元気でいてくれるだけで十分だと感じる瞬間がある。恋のドキドキはやがて薄れていくかもしれない。それでも、その代わりに生まれるのは、もっと深い安心感。愛は恋の延長ではなく、恋が成し遂げられないことを引き受ける意志なのだと思う。
あなたはこれまで、誰かに心から向き合ったことがあるだろうか。恋の情熱が冷めた後、何を選び、どんな言葉を紡ぎましたか?
恋の始まりには、ただ情熱に任せて突き進む楽しさがある。それでも、その先にある愛は、きっともっと豊かで深い関係をもたらしてくれるはず。
愛するとは、一緒にいるための選択を繰り返すこと。その過程では、必ず「面倒くさい」と感じる瞬間があるだろう。それでも、相手の笑顔や幸せを見たいと思う気持ちが、私たちを努力へと駆り立てる。恋が私たちを無条件に惹きつけるものなら、愛はその惹きつけられた気持ちを守り続ける決意だ。