An Occupational Perspective of Health by Ann A. Wilcock SectionⅠ:健康と作業の科学
SectionⅠのイントロダクションの日本語訳です。訳の正確さには責任を負いかねます。(ちょっとわかりずらいところも多いと思います)
アンウィルコックが本書を執筆した動機がわかります。
・戦争、環境破壊、飢餓等々の社会問題を解決し、社会的健康のための作業の役割を明らかにすること
・そのために2つの視点を持っていること。1つが、人間の自然な健康行動とは何か、2つめが、権利とそれに見合った行動のための倫理・ルールとは何か。
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この本は、SectionⅠの、健康と作業の科学、SectionⅡの、アクションリサーチアプローチ、から成っている。ここでは、SectionⅠを見ていく。
SectionⅠは6章編成であり、各章のタイトルは以下のとおり。
第1章 健康と病気
第2章 自然な人間の作業理論
第3章 作業:すること、健康、そして病気
第4章 作業:することを通した在ること
第5章 作業:すること、あることを通したなること
第6章 パブリックヘルスのエージェントとしての作業
SectionⅠへのイントロダクション
私はニュースを読み、聴き、見て、いつもたいてい怒っている。私は怒っている人としての自分自身を述べていない。
なぜそうであるのか。
地球の全ての箇所で増加している社会的な病気の結果がリポートされている。戦争、テロリズム、暴動、地球環境の破壊、飢饉、ホームレス、継続的な薬物乱用、登校拒否、解雇、社会福祉の詐欺、国家への依存、病に関係する食べ物の増加、家族離散、自殺、攻撃、薬物乱用は、共通したトップのニュースである。現代の世界は、非常に間違った何かになっている。にもかかわらず、ポストモダンが焦点をあてる財のポケットは、経済的に合理主義的な統治である。皮肉にも、財は、多くの社会的病の主題である。原因の1つに、社会的病への理解の欠落があると私は信じている。WHOが、行政に対して、健康の実践について注意を呼びかけているにも関わらずである。30年近くで人口は膨れ上がっている。加えて、私は、身体やメンタルヘルスと同じくらい、社会的健康に対する作業の役割を信じている。これらの複雑のいくつかがこの本を通してすっきりとするだろう。
健康と作業の科学
すべてのことが森羅万象であるように、健康は、注目すべきシンプルさと複雑さをもつ。100年の間に複雑さへの理解が急速に成長しており、健康へのシンプルでより重要な様相が俯瞰されてきた。それらは明らかに、そして、総合的にみて無知である。最初の6章では、数千年にわたり見過ごされてきたいくつかを見て、無視されつづけた健康の中心的要因を新たな目で捉えるだろう。すなわち、何を、なぜ、どのように人々がしてきたのか。人間とは何であり、早期のホモサピエンス、そしてすべての種類の生物は死に、そして、まだしていることは、健康を迫害することであると。野生の動物は、環境があまりに徹底的に変化しない限りは健康的に生き延びることができる。人々は幸運ではない。地球をまたにかけ、自然環境や生活の方法は、取り返しがつかないほどダメージを受け、病の多くが現実に表れている、そして、それは長期にわたる可能性がある。健康についての人々の経験の否定的な背景は、多くの部分において、人々がしてきたことだけでなく、現在なのをするかということにおいて、そして、有利な国々が協力しながら富を追求することを非難されることが可能だ。
医療科学の繁栄と、間違った権利のための若い環境運動が被ったことは、世界のニュースの日常的なトピックである。人々は作業を必要としているということと、彼らの健康と病気の関係性を探索しないままであるという事実がある。これは、有限な人々が、健康や病気の原因、処方されることについての規則について彼らの観察の記録を始めたという事実にも関わらずである。20世紀早期まで、医療や休息、またより最近は、肥満を解消するための運動への関心や病気が続くことと見なすことを除いて、めずらしいケースのままであった。食べることや健康は、古くからある健康規則の絶え間ないエビデンスであったが、作業については、なること、準備すること、食べ物を食べることは健康の様相と同じくらい無知を増加させてきた。彼らは、主には、社会的な事柄や経済的な事柄としてみなしてきた。また健康や病気から区別して社会的な事柄をみなすことは、彼らがすることで楽しみや意味を見出す必要を人々が表す方法は、まだあまりに基本的な健康メカニズムである。WHOは、ダイレクトな手引きを供給している。これらは、それらを推奨するべきであるというより早期の健康のルールから変更している。もし、それが重要なものとして浮上するなら、新たなルールは、作業的課題を健康を理解するための広く取り上げるヘルスサービスを導くことができた。作業の用語から区別してパブリックヘルスを見渡す間は、健康的な作業への参加を可能にすることを通してパブリックヘルスを改善する方法を直接的に供給する。
人々の健康と作業の間の関係についての信念や価値、近くやアイデアの基準を探すことにおいて、ヘルスケアは、産業化後の社会のなかで医療科学によって支配されてきたことを思いだすことは重要である。これは、社会心理学、生物化学、病理学、生物統計が主要な基礎であり、現代テクノロジー、外科学、薬理の発展が社会的に受容されている。医療科学の価値は、産業化後の文化を考えるために統合化しており、医療科学的視点以外から、健康をうけとるための社会をもたらすことを難しくしている。ある一定の範囲において、これは価値や擁護すべき健康についてのアイデア、信念、アプローチの研究の限界であり、医療科学によるものが重要だと思われてきた。行動による健康、社会的な健康、健康科学の専門性が成長してさえ、医学からの差異化や区別は、まだ医療科学の価値や視点からの影響を受けている。彼らは挑戦し、医療科学のカテゴリや理論を使っている。つまり、分析し、身体、行動、社会的要因の結果による病気を予防したり減らしたりしている。それを強調する理由は、健康を研究するなかで夢中にさせる主要なものは、病の原因を取り除くためのものである。それにもかかわらず、健康を促進するためのオタワ憲章の全体論的な哲学は、”新しいパブリックヘルス”運動によって採用され、21世紀に向けたジャカルタ宣言によって批准した。健康の研究は、最近は、病気の社会的な決定要因、健康促進に関心がもたれ、良い健康や良く生きることの原因の詳細な探索で病の出来事を減らすことに夢中になっている。そして、良いことは、多くの人に予防や健康促進を結びつけ、病の予防をすることが中心になっている。ヘルスケアを支配する医療としてのパブリックヘルスを支配する予防的アプローチは、病の原因や予防のメカニズムを説明する医療科学を一般的に承認してきた。
新しいパブリックヘルスは、産業化後の経済合理主義の価値と社会的平等の間での議論によって影響を受けてきた。医療科学と社会的価値についての議論の間を捉えると、パブリックヘルスは、もしニーズが明かな身体機能や金銭的なもののために減少しないなら、基本的なニーズは健康に関連すると考えるために大きく失敗をしている。むしろ人間のニーズのアイデアである”本能・衝動の理論”のように、人間のニーズのアイデアは、流行を追うものではなく、無知の広野が広がっているのである。”自然に対しての誤った考え”を関連づけることや行動主義や文化関連主義における支配的な認識のステップをはずれる。この立場は、人間のニーズの多くや潜在可能性に無知である。人間の”ハードに接続する”ような神経構造の部分にである。そして、Doyal やGoughが受賞をした「人間のニードの理論」が述べているような部分にである。もしニードが、不均衡な状態によって意欲を生じさせたりするものであることが同定されなければ、それらは、”人間の自然”へ接続されなかった。これらの著者の立場は、そのような断絶は、人間であることの理由以上に人間であることを同定することはないだろうということ、人間存在が、のこりの動物の世界からわかれたことを立証することである。それは、最初の6章で立証される。最初の6章では、健康が、生物的なニーズや潜在可能性、”どのように自然が人間が生きていくことを意図しているか”を学ぶことである。そして、有機体が生きることのニーズは、”その見本がどのように示されるか”のポイントから健康に関連することを学び取ることである。
最初の6章が再訪する主要な概念は、人間は”作業的ニーズ”を持っているということである。それは多くの他の動物のパターン化された本能的行動を超えており、それらのニーズは、健康と関連している。’実際、彼らは種である’。原初的な健康メカニズムは、彼らの生物的な能力や潜在可能性を用いて個々ができるようになるのと同じ程度、他の基本的な要求を供給することの意欲は、社会文化的な期待、種の繁栄に出会うことである。内的、外的な情報化の過程における、中心的で重要なシステムの統合的な機能は、作業に従事する事で活性化し、生きのこるためにとても重要で、ホメオスタシスを維持し、健康や良く生きること促進する。人間の脳の適応的な能力は、健康やうすること、あることなることの間の関係のために社会的次元を加える力や価値を持つ文化に対する反応のための目的をもった作業を本能的に行うようにできている。
私は健康と作業の間の関係の固有な進化の覆いをとりはらうために、作業の視点から健康を探索する。私は、経験、学び、文化的進化の影響の決定因子として、進化論と現代の生物学的アプローチ、文化的アプローチを、融合させる。これは、発見や他のアイデアを探す動物行動学者によってとられるアプローチと似ている。生き延びるためのどのような行動も学びの基にある。オーストラリアの動物学者であるKonrad Lorenzは、動物行動学を、”文化的な歴史における、人における、個々の発達における、種の歴史において起こる発達の過程のための、特殊な形態と同じような、存在することそのもののシステムの機能のとしての動物や人間の行動”を検証する過程としている。
Lorenzの視点において、私は、作業的価値や健康が要求された数千年によって影響を受ける以前の初期のヒトの自然な健康行動といった有史以前の作業的特色を考える。生物学的な進化から結果的に人間の特色を想定することは、社会的価値の変化のように、作業的進化が影響を受けてきたということである。そして、作業技術は、自然な健康行動に影響を与えていくだろう。その探索は、考古学や人類学の調査をベースにしており、多くの貴重な出版がなされた。それは考古学の研究での発見や文脈、科学的分析の主題、再考で明らかになった仮説や、現代においてまだ早期のライフスタイルに従属している人々のエスノメソトロジックな研究の幅が支えになっている。 生物学的な性質、能力、作業的改革、健康、そして、よく生きること、そして、病気を予防することは、自然な健康や生物的なニードの背後にあるアイデアの覆いを取り除いて探索されることになるだろう。
この探索は、作業科学の新しい学問的訓練の土壌を供給する研究を加えたり、描くことになってきている。作業の科学のニーズを認識することは、もっぱら新しいものではない。最近、しかしながら、作業ーこの感覚においてそれはここで使われ、そして、治療以上にそれ自身正しいー作業科学者にとって唯一重要なポイントであってきた。イギリスの哲学者であり、自分スタイルの外科医であったJohnLockは、3つの科学だけば必要であるという見方を提起した。1つは、作業科学に近いものである。Lockは、哲学が支配するヒューマニズムあふれるルネッサンスの後半の啓蒙の時代を生きた。彼の科学の必要の認識は理解することである。ヒューマニズムは、”身体や魂、肉や精神、気持ち、そして事柄”、そして、アイデンティティ、運命、道徳、精神的によく生きること、個々の才能や関心における改心の呼び鈴について抱く以前の見方をに挑戦した。”人間を理解することについて考える”というエッセイで、Lockは、”3つの運”として、分けられる可能性がある限り世界を探索、発見することの意味としての科学を議論した。最近の言葉で最も近いのは、生物学、作業、コミュニケーションサイエンス。
「第1に、彼らが彼ら自身であること、彼らの関係、彼らが手術するときの物腰というような、物事の自然、第2に、特に幸せ、いくつかの終わり達成のために、理性的で自発的なエージェントとして彼自身がすべきこと、第3に、方法と意味という観点から、一つとその他の知識をどのようにして達成して、コミュニケーションするか」
興味深いこととして、これら3つの科学は、このテキストに表された視点の中心的なものである。Lockは、さらに述べている。彼が定義した倫理と呼ぶ2つめのことは、
「私たちの力や行動を適用する権利のスキル、善と有用性の達成、この頭の中で最も考えることは、それらの実践の意味、、幸せを導く、人間的行動の測定、これらのルールを探しだす倫理である。このおわりは、むきだしの観察ではなく、そして、心理の知識である。つまり、しかし、権利、そして、それに見合った行為」
彼のもっとも重要なテキストを通して 再びこのテーマを考えることは、実践と可能性に言及することである。この方法で人間を理解するという主題をひややかに見ることにおいて、彼は人間の労働の価値、例えば、人生における作業の中心性を認識していたウィリアムジェームズのようなアメリカのプラグマティズムの哲学者らを認識しているヨーロッパにおける社会改革者として19世紀から早期20世紀を予見している。両方のグループは、アメリカやイギリスの現代の作業療法の考えに影響を与えてきた。これは、作業療法教育の設立を導いてきたシカゴのJane AddamsやロンドンのOctavia Hillによって示された決定の役割をとおして達成していた。
作業療法の促進のためのAmerican National Societyが形づくられたのは1917年のことだった。建築家のGorge Edward BartonやThomas Bessell Kidner、ソーシャルワーカーのEleanor Clarke Slagle、外科医のWilliam Rush Dunton、そして、教師のSusan Cox Johnson、彼女は、フィールドでフルタイムの仕事をし、法人団体の証明書を書くために、ニューヨークのClifton Springsに一緒に来た。協会の目的は、専門職団体としての権利をバックアップするための重要な調査であると認識した。それらは、”治療的な尺度としての作業の促進”であった。つまり、人間にとっての作業の効果の研究である、そして、この知識の科学的な確立である。
これらの特段の目的は、作業の複雑な成り立ちのため達成が困難であると認識されたが、半世紀のち、作業科学の開発と同じように、最近の公衆衛生の文脈で価値あるものとみなされるようになってきている。
それは、南カリフォルニア大学における作業療法の教育者であったMary Reilly であった。彼女は、1960年代初頭から、作業科学を開発する方法を導いた。目的は、”彼の手を使うことを通して人間らしくある”ことであったい。彼らは心と意志によって力づけられ、彼自身の健康の状態に影響を与えることができるとした。彼女は、医療科学の前提を描くことから、最初の主要なことを仮定し、人々が生き生きとすることの自然を説明している。2つ目の主要な点は、人間にとって成長することや、生産的であること、彼女は、この主要なことを前提として、作業療法は行われるべきであると言い続けた。2つめの主要な点は、有機体の特定のパワーを広げて存在との両方をつなげる役割の概念を”溶け込ませること”が、1つであり同じことなのである。Rellyは、Gary Kielhofnerの人間作業モデルの証明など、彼女の大学院生たちの仕事に大きな影響を与えた。Kielhofnerは、今日の作業療法士として最もよく知られている人の一人であり、”作業は、人間存在の中心である””すべての人の作業的営みは人間のシステムとして生得的で自発的な傾向ー探索をし、環境を支配する”といReillyの基本的な想定の1つから彼のモデルは発展した。Reillyはまた、彼女の同僚に影響を与えた。その一人が、Elizabeth Yerxaである。彼女は、”ユニークな学問性の追求と博士号の学位の利益のための重要性”のために作業科学を開発し組み立てた。彼女は、作業療法は、社会科学である人類学、社会学、心理学などに類似するものとして作業の基礎的な科学をとらえた。南カリフォルニア大学において彼女と彼女の同僚は、作業科学を、”人生上の様々な環境のなかでニードを持ち、従事する能力を携え、日々の作業を編成する、作業的な存在としての人間の研究”とした。このテキストのなかで、このことは、”作業的存在としての人々の研究”と短く表現している。
20世紀の初頭以来、社会や経済、テクノロジー、医科学について考えるニューエイジは、時間が、それら自身の正しさよりもむしろ、これらの視点から熟考する作業を考えることを支配してきた。しかしながら、それは早期の社会主義者やプラグマティストが、農耕から産業への変化を基礎として人間の労働の技術が社会的に大きく変化した結果生じた人生の作業の重要性を認識したことが作業への関心の結果起こったこととして注目を寄せられているのである。作業への関心の現在の復権や、作業療法士による作業科学は、特別なニードへの反応や変化の時間に再び人間作業の要求を再考することがよいだろう。それは、WFOTにおいてどのように公衆衛生が抜けだしてしまっかに関連するし、専門職の組織的な目的の中心である。
作業を通して健康やよく生きことの促進すること。作業療法の主要なゴールは、人々が日々の生活の活動に参加することが可能になること。作業療法士は、よりよい参加をサポートすることで環境を修正し、意味のある人生への彼らの能力を力づけ、人々がそれが行えるようになることによってこの成果に到達する。
なぜなら作業はこのテキストの中心となるテーマなので、この特別な文脈の世界によって何に意味があるか、可能な限り明らかにする必要がある。このテキストは、今世紀初頭の10年の専門職の発展の際に世界の共通の慣例で、英語圏の多くの作業療法士に使われるだろう。時代に応じた語彙において、作業は”占有されること、占有するものは何か、時間を満たすものの意味、一時的あるいは規則的な仕事、ビジネス、職業、探究”そして、”占有し、時間や注意に従事すること”。現代の辞書には、作業の中心的な様相は、”占有されること、あるいは、雇われる、何かに従事する”といった意味が含まれる。それにも関わらず、より一般的な意味として、作業は、働くことに特別に支払われるもの、という意味がある。適応的な作業は、”作業的な健康や安全”そして、”作業的”な病”というように使われれる。本書における作業は、人々が必要とし、望み、義務付けれられること、つまり、それらを意味するものは何か、そして、変化の潜在的要因はしばしば間違って理解される。より包括的ではないが似ている他の言葉として、たとえば、活動(activity)、運動(exercise),仕事(task)は時を経てふさわしく使われるだろう。
作業は、経験の理由となる日常生活の多くを占めている。それゆえに、人々が、個別の目的を持ち、親しみを持ったゴールに出会うために従事するものとも言われる。つまり、彼らは効果や概念化、そして、優先順位をつけた計画を考え、その結果として、この先改善することを振り返る。作業は、コミュニティや個人の文化的な倫理、知性、道徳、社会そして、身体的な特性を示す。それは、彼らができる何かだけでなく、そうなりたい希望でもある。作業はまた、社会の相互作用や開発、成長、地域、土地の基盤となる形成、国家のアイデンティティを供給する。なぜなら、個人は分業に従事するだけでなく、国にまで広げてグループの活動をやりとげたり、個人や相互、コミュニティの目的のための国際的なゴールに到達することができるからである。
作業がなければ、長距離の飛行機による旅をする人が証明するように、時間は極端にゆっくり現れる。作業は、時間に目的を与える特性を持つ。人間はそれがないと、うんざりし、抑うつ的となり、時々破壊的になる。意味や目的に満ちた時間を過ごすことが重要であるにの関わらず、他の人にとってそのことはぼやけてあらわれる。アドルフマイヤーは、20世紀前半の高名なアメリカの心理士であるが、信頼のおける作業療法の哲学的を提供した。それは、人々にとって時間をどのように使うかが非常に重要であるという提案であった。彼は、人であることの基となるバランスを維持するためであるとした。身体や自然なリズムで時間のなかで行動することが必要であり、そして、適切な時間による活動と休息は、健康な生活を構成する重要なものとしている。どのように、なぜ人が時間を使うのかを探索することは、社会文化や健康に関連する事項の違いについて豊かな資源を供給する。そして、作業の視点は、綿密な調査の主題となる。時間を使う調査は今世紀初頭から始まったが、たいていの研究は、国や国際的なレベルの計画者に提供するための大規模なデータの比較研究である。今日では。多くの時間を使う研究が、作業科学者やセラピストに経験上の情報の重要なデータを提供している。
作業療法士による声明は、作業は人間の経験の中心であるという専門職性を視点として持つことを提案している。研究知見において、作業は、”日々の日常から織りなされる”ことを基盤にした”人間の現象の特性”、さらに特別な提案として、仕事や余暇、遊び、身支度、休息そして、社会的相互作用において”時間を使う、活力、興味、そして注意”として述べられてきた。それは、社会的な影響を基礎とした”彼ら自身のユニークな方法における個別的に実行される””陽気な、平和な、重大な、そして生産的な活動”を含む。社会的な影響とは、彼ら自身のニーズ、信念、選好などである。”経験の種類は、彼らの環境、かつての時間が要求した行動のパターンである”。作業が大きく広がるためには、政治的な意図や環境要因が影響する。それは文化的な制裁や”時間や資源を組織する”人による。人が生き残り、コントロールし、そしてかれらの世界の適応するためには、つまり、経済的に十分な状態になることが彼らの自己イメージを作り、彼らの生活を組織することになる、そして、個人の成長と同じように、社会的な関係承認の経験をすること、である。それが、個人的、社会的なアイデンティティとして知覚され、社会的に期待され自由に選択された”文化的な価値や、活動の首尾一貫性”における人々や彼らの環境との相互作用の過程である。これらの定義のなかに眠りを含む作業科学者はいない。だけれども、その重要性と関連性を認識している。私はそれをここに含む。これは作業の全体的な視点において、人口や特定のコミュニティ、グローバルなレベルにおいて適用でき、個別的にだけとらえ言及すべきではない。ここで述べるすべての様相は、本書をとおした作業に与える意味を統合している。図1-2は、本書のとる作業の範疇を示すためにオーストラリアのDeakinUniversitの作業科学や療法の学生によって描かれた。
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