事八日。2022
2月8日。事八日。
今年はどうしようかって、思いながら。台所に残っていた切れ端の野菜を色々集めて、お事汁を作った。
今日は、神事が終わり、田の神様に挨拶する日。
そして、地域によっては「針供養」をする日でもあります。使えなくなった針を神社に収めたり、豆腐や蒟蒻のように柔らかいものに刺したりすることで供養したり、あるいはお餅に刺したり、川に流したり、土に埋めたりして、お裁縫が上手くなるように願うのだそうです。
恥ずかしながら、わたしは大人になってオランダに来るまでこの行事の存在を知らなかったため、日本でこのために神社、寺院に出向いたことはありません。
ただ、「針と糸」についてはかなり前から思いを巡らせていて、2019年にアムステルダムのギャラリーで、余った松材の麹蓋を針山に見立てて針をたくさん刺して展示した時も、来た人に一本ずつ刺していってほしい、そして置いてある糸を好きなように通してほしい、とよく分からないことを周りのアーティストたちに呟いていました。
あの時は完全に何の製作なのか理解していなかったけど、一年後の事納めの日、突然稲妻のように落ちてきて、あれは供養だったとやっと氷塊した。
許し、流し、忘れること。それをひとりでやる勇気がなかったわたしの、魂のSOSがあの作品だったのだなあと、一年経ってやっとその時涙した。
そのまた一年後、ちょうど最初の緊急事態宣言が出た頃わたしは日本にいて、その時も滋賀で「発酵菌玉手箱」を埋めようの会、という意味の分からないタイムカプセルイベントを企画していて。
結局イベント自体は決行できなかったのだけれど、あの時にやりたかったことも、「埋める」という行為で、それも同じく供養だったのだと今になって思う。
我ながらいつまでもいつまでも臆病で、なぜひとりで供養できないのだろうと情けなく思うけれど、あの時あそこで始まったものも、始まらなかったものにも、両方に意味があると思っていて、それをたったふたつの眼で見届けることができないから、誰かに同席してもらって証人になってほしかったのだなあ、と今年の事八日にようやく思い至った。
使えなくなった針を豆腐のような柔らかいものに刺すのは、それまで硬い生地などを刺して頑張ってきた針に、最後くらい柔らかいところで休んでいただきたい、という気持ちの表れなのだそうだ。
3年前、その針に糸を通したかったわたしは、何がしたかったんだろう。
今年こそ、その針山をどこかに流せるようになるのだろうか。