思考中毒になりたかった!

 『「考えごと」は思考に含まれない』
 『思考中毒になる!』(齋藤孝)の章題だが、この文はいままで見ないふりをしていた私のだらしなさを指摘した。数学の問題を解くときも、データ分析の示唆を考えていたときも、恋人と喧嘩して言い訳を必死に考えていたときも、いつも途中から「同じこと」を考えた。失せ物を何度も同じ場所を探すように、一度考えた思考を繰り返しやはり妥当ではないと無為に時間をかけていた。なんとなくそれが無駄なことだとわかっていたが、私は「思考しているのだ」と陶酔し改めなかった。その悪癖のために問題が複雑になると、考えるのが面倒になり放棄していた。一本道でさえ何度も往復するのにそれが三叉、四叉になったり合流したりなんてしたらどれだけ歩き回るのか。そんなのやりたくもない、面倒だと思っていたから自分の怠惰さが故に思考を放棄しているのだと思っていた。が、問題は「思考」できていないことだった。
 「第3章 思考のクオリティを上げる」ではどこかで聞いたことのある「すべきこと」が列挙され、それだけでは特段閃きはなかっただろうが「もう一人の自分を持つ」は衝撃だった。自分の中対話し真実を見出すという内容かと思いきや、自分自身に「ちゃんと考えているか」と問えというので驚いた。確かにそうだと思った。
いつも考えることは面倒くさかった。
宿題や予定はできる限り先延ばしにするし、やることが望ましいことでも興味がなければなんやかんやもっともらしい理由をつけて放棄していた。しかし何かの仕組みを考えることは好きだった。大学入試数学の問題を友達と一緒になって考えたり、クイズを解いたり、ふと疑問に思ったことを理由づけしたり、そういうことは昔から好きだった。それなりに良い大学に通い、いくつかの資格試験に合格し、グループワークでもリーダーとなることが多かった。だから私は面倒くさがりだが「考えられる人間」なのだと思っていた。しかしどうやら違ったらしい。齋藤孝曰く私は思考をしていないのだと。心臓を撫でられた気がした。

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