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お父さんイヤ。お母さんがいい。

「お父さんイヤ!お母さんがいい!」
先生に抱っこされた、2歳の娘が泣きながらきた。

「そんなこと言わないでよ~」
「ごめん、ごめ~ん。お母さんに逢いに行こうね~。」
私は、全力で、、、陽気に答えた。

保育園のお迎えで、たまに起きる、災害みたいなもの。

この時、何よりも先に僕がしたこと
”別に気にしていない”を先生たちにアピールすることだった。
つまりは、恥ずかしながら
私は”気にしていた”ということになる。

”2歳の言うことだし、そこまで本気にしてないし、よくあること”
もちろん、そう思ってる。でも、大好きな娘に言われたら
素直に、悲しくて苦しくて、どうかなりそうだった。

「え~お父さんのこと好きじゃ~ん」
こうゆう先生の言葉が、恥ずかしくて
とにかく、早く、この場から立ち去ろうと準備を急いだ。

帰り道、娘と歩きながら、改めて、明るく聞いてみた。
「なんで、お父さんイヤなの~?」

「お父さんイヤ!お母さんがいい!」
ここに、先生はいない。
隠す必要もなくなったのか、私は普通に不機嫌になった。

そして、今度は冷たい感じで言った。
「そんなこと言わないでよ」

すると、さらに大きな声で
「お母さんがいいの!」と、娘は叫んだ。

「・・・」

もう、返す言葉がない。
きっと、時間にして5秒くらいだろうか、娘がまた叫んだ。

「お母さんもいいの!お父さんもいいの!」
「一緒がいいの!」

「・・・・・・・」

追い打ちをかけてきたと思ったら、違った。
一緒がいい?どうゆうこと?
フリーズした。

ふと、娘を見ると
泣いているというより、怒っていた。

怒っている娘の顔をみて、分かった気がした。
”お父さんがイヤ”なのではなくて
”お父さん一人がイヤ”だったのだ。

「一緒にお迎えに、きてってこと?」
と聞くと、娘は
「うん、一緒がいいの!」と言った。

「恥ずかしい」
この時の素直な感情。
先生たちに感じた”恥ずかしい”とは、少し違う。

何が違うのか?と言われてもうまく言えないが
この時は、”あったかい恥ずかしい”だった。
心の奥底から、少しずつ、全身があったかくなっていく。
心地よくて、うれしくて、わくわくした。
そんな感じ。

この日、すぐに、私は妻に話した。
そして、次の日、一緒にお迎えにいくことにした。

妻と時間を合わせ、二人で保育園にお迎えにいく。
正直、あまりみたことのない光景。ちょっとだけ恥ずかしかった。
この恥ずかしいは、先生たちに感じた恥ずかしいの方。

少し、緊張しながら、わたしたちは、保育園のピンポンを押した。

「わーーー!〇☆#$%&ー!!」

正直、娘が何て言ってたかを正確に覚えていない。
とにかく、娘が超はしゃぎながら、走ってきた。
覚えているのは、これまで見たことがないくらい
”嬉しそうだった”ということ。
その娘の姿は、もはや異常といってもいいくらいだった。
周りの先生も、見たことのない光景に戸惑っていた。

この時、私は、あの
”あったかい恥ずかしい”を感じた。

そして、気づけば、笑顔が溢れ、目頭が熱くなっていた。

きっと、世界中の”親”たちが、感じているであろう。
”こどもの可能性”
忙しくて、頭がいっぱいで、見逃してしまっていることも多いけれど
ふとした時に、「ハッ」とさせられる。

”こどもの可能性”という言葉で合っているかもわからない。
いや、こんな言葉で終わらしてはいけない。
そう、強く感じている。

私は、”お父さんイヤ!お母さんがいい!”という言葉を聞いて
悲しみ・イラつきさえした。
それは、どこかで、私と妻の比較をしていたからだと、気づかされた。
娘からみて、私と妻のどっちが好きか?

”お父さんイヤ!お母さんがいい!”は娘にとっては、比較ではなかった。
どっちも好きで、一緒に来てほしかった。それだけだった。
私は、いつも娘に言ってきた。

「家族はいつも一緒」

きっと、娘は、このことを素直に受け止めていてくれたのだ。
言い出した、私たちが破っていた。

お迎えは、私か妻の行ける方がいけばいい。
それが当たり前だと思っていた。
”お迎え”は、一緒じゃなくていい。そんなルールや規則はない。

そもそも、、、
お迎えに限らず、”家族はいつも一緒”というのに、特別も例外もないはず。いつのまにか、私と妻を比較し、お迎えは特別と分けてしまっていた。

思えば、私たちの日常は
”比較と分断”
で溢れていることに気づかされた。

それが良いとか悪いとかではなくて
大事なことは、、、
私が、娘に”家族はいつも一緒”を教えていたつもりだったが
逆に、娘に、”一緒”ということの本質を教えてもらった
ということだと思う。

この日から、私と妻は、できる限り保育園の送迎を一緒にいくことにした。
その日から、娘の笑顔が増え
私も妻も、そして、保育園の先生たちにも笑顔が増えた。

これは、きっと、言葉では伝わらないと思うが、私たちにとって
「キセキ」。

保育園に行く時と、帰りの大泣き大戦争が、みんなの笑顔が輝くユートピアに変わった。これをキセキと言わずに、なんと言えばいいかわからない。

わたしたちは、娘に、「一緒に」ということの本当の大切さと、その先に、キセキのような未来が待っていることを教えてもらった。

”親とこども”
じゃなくて
”おんなじいのち”

わたしたちは、もしかしたら
みんな、そもそもが間違ってるのかもしれない笑

こどもたちは、いつも、そのことを教えてくれている。

そして、そこに気づけたとき
”恥ずかしい”が
”あったかい恥ずかしい”になったりする。

いろんなことがひっくり返る

”こどもの可能性”
じゃなくて
”可能性は無限”になる


今日は、どんなことを教えてくれるんだろう。


#創作大賞2024  #エッセイ部門 #こども先生 #まことの価値











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