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ともにあるということ

我が家の長女(もうすぐ5歳)には、『きいろちゃん』と呼んでいる相棒がいる。
それは人ではなく、動物でもなく、ぬいぐるみでもなく、ブランケット。
黄色い生地に白い花柄のガーゼケットのこと。
その見た目の色から命名されたのが『きいろちゃん』である。
要するに、ピーナッツ(スヌーピー)に出てくるライナスの毛布を思い浮かべていただけたら、もうそのものずばりという感じ。
たしか長女が生まれて半年ぐらいのとき、手作り市でちょうど良さそうな大きさのそれを私が見つけ、長女に買い与えたのがきっかけだったと思う。
洗えば洗うほど柔らかさを増す、というガーゼ生地の風合いに
「いいじゃん」
となんとなく思って買ったのだ。
いまやそのガーゼケットは、長女の手放せない大事な相棒なのである。

長女の朝はきいろちゃんを手繰り寄せるところから始まる。
まだ寝ぼけ眼で、うぅ…ねむたいよぅ…、なんて言いながら右手はさわさわと周囲を探り、くちゃくちゃになったきいろちゃんを探す。
目当てのそれが見つかれば、鼻先まで持っていって一息つき、そして二度寝を始めようとする。こらこら、起きなさいよ、と私が毛布を引っぺがして抱っこすると、長女はきいろちゃんを抱っこしたまま起き上がる。
朝の身支度中はさすがに手放しているが、保育園に行く前は綺麗に折りたたんで、いってきます、ときいろちゃんに一言。
保育園から帰ってくるとまずは今日あったことを矢継ぎ早に報告してくれ、一息つくと、あれ、きいろちゃんは?、と行方を捜す。
見つかると、あった、あった、とぎゅっと抱きしめ一緒にテレビタイム。

日がな一日、長女はずっときいろちゃんと共にある。
けれど、ふとした時に忘れ去られているようなときもある。
部屋の隅にクシャっとなったままほおっておかれている(ように見える)ガーゼケットを見つけると、言い知れない寂しさが私を襲う。
きいろちゃん、落ちてるよ、なんて私から長女に声をかけてしまう。
すると長女は、ああ忘れてた!なんてケラケラ笑いながらきいろちゃんを抱っこするのだ。
あれ、そういう存在感?きいろちゃんって長女にとってどんな存在?
不思議である。
ちなみに時々こっそりきいろちゃんを洗濯すると、長女に烈火の如く怒られる。すぐにバレるのだ。
なんで洗濯されるの嫌なの?と聞くと、きいろちゃんのにおいじゃなくなるから、と言われた。
きいろちゃんってにおいがあるのか…それは長女がいろいろ擦りつけているからではないか?と思わないでもないが、洗濯するとどうやらきいろちゃんのアイデンティティが薄れてしまうらしい。
なので洗濯するときは事前に許可をもらうようにした。
それでも拒否されるのだが、今朝はそれが違ったのである。

いつものように、きいろちゃん洗濯してもいい?とそれとなく聞くと、
いいよー、と。
え、いいの?
驚いて聞き返すと、うん、もう怒らないよ、とあっさり言われた。
怒らないの?なんで?と思いつつもあまり聞き返して臍を曲げられてはたまらないので、そうか、怒らないか、と頷くに留めておいた。
いまきいろちゃんは洗濯機の中で回っている。

かのガーゼケットは、長女にとってどんな存在なのだろう。
ときに相棒であり、お守りであり、赤ちゃんであり、母であり、父であり、自分なのかもしれない。
洗濯しても怒らない、そうした距離感ができてきたのかもしれない。
手元になくても、長女のどこかではいつもきいろちゃんが共にあるのかもしれない。
そんな存在、私にはあっただろうか。
願わくば長女にとってのきいろちゃんが、『ジェインのもうふ』に出てくるもーものような存在になっていってほしいと、思わずにはいられない。


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