しもざわあんなというひと、そのほんの一部。
わらじ荘へ。あんなちゃんとの出会い
もともと、SNSだけでの繋がりというのが私にはきもちわるい。
できれば興味を持った人には実際に会いに行って、話をしたいと思うほうだ。だからTwitterであんなちゃんをすぐにフォローしたけれど、機会があればできるだけ早く会ってみようと思っていた。
「デジタルネイティブ」のセミナーから2週間後、あんなちゃんのTwitterでわらじ荘でのイベントの告知が出た。2日間ほど限定で、古着販売をするという。「ちょうどいいから行ってみよう」場所を調べると、車であればすぐに着く距離のところ。建物自体は古民家をリノベーションしたらしく、「旧野口梅吉商店」という名称でGoogle mapに表示された。
いざ、わらじ荘を訪れて古着屋さんの小さなポスターが貼られた入り口をくぐり「こんにちはー」と入っていく。女の子が2、3人出てきた。
「しもざわあんなさん?」「違います」「あなたがしもざわあんなさん?」「違います。いますよ、呼びますか?」「お願いします」…と、顔をのぞかせた女の子の中に、ひとり見知った子がいた。知人の、高校生の娘さんだ。「○○ちゃんだよね?」と言うと本人はびっくりした顔をしていて、こういうつながりでお母さんを知っていて…と話すと、「えーーーそんなことあるんだー!」とみんな一様に驚いてみせる。高校生、大学生の反応のよさ。新鮮。
大学生はあんなちゃんのお友達、高校生はボランティア活動団体に所属している子たちで、よくわらじ荘に出入りしているらしい。
「函館にはなにもない」???
5人目ぐらいに、ようやくあんなちゃん本人が顔を出した。「こういういきさつであなたのことを知って、会ってみたいと思って来たんです」「そうなんですかー。よかったら、入ります?」と言って、部屋の中へと案内してくれた。和室の部屋は「ここを図書室にしようと思って」と、本がたくさん。あんなちゃんはトレイに載せられたティーセットのようなものを私に見せて、「ここで『今日はどんな気分ですか?』って聞いて、その人の気分に合わせてぴったりの本を選んであげるんです。どう思いますか?」と言いながら、ケーキ皿の上に絵本を載せた。「いいと思う」楽しいと思う。やったーと喜ぶあんなちゃん。なんだろう、不思議な子だ。
それから女子高生・女子大生5人ほどが私を囲むように円座になり、流れで、「デジタルネイティブ」の交流会で私が初対面の大学生から「函館のまちには何もない」と言われてショックを受けたことを話した。
「えー!」「函館のまちは面白いのに」「その人、自分で面白くしようと思ってないんじゃないかな」口々に言う学生さんたち。反応がよい。
あんなちゃんは言った。
「何にもないって、何でもできるってことじゃないですか。最高だと思う」
しばらくたった後に、北海道新聞道南地域版「みなみ風」にあんなちゃんが寄せたコラムを読んで、あんなちゃんも函館の大学に進学して生活し始めた最初のころは、函館のまちが嫌いだったということを知る。嫌いだった土地を好きになった彼女の言葉は、力強く私に響いた。
「この子は面白い感性を持っているな」そう思った。
わらじ荘発展を支えたあんなちゃんの思い
あんなちゃんはその時、わらじ荘のことを「道南杉を活用するプロジェクトの人やアーティストの人が関わってくれているので、この場所をものづくりの拠点にしたいんですよ」と言っていた。それが徐々に実現してきている。8月の現在、わらじ荘に集まってきている子は住んでいる・いないに関わらず、何かの活動をしている子やアートに携わっている子ばかり。最近では、短歌を作る子×絵を描く子のコラボも行われている。キャンドルナイトのライブでは、音楽を演奏する子とダンスをする子のユニットもあった。どんどん掛け算が進んでいる。
荘をつくりあげていくにあたって、当初あんなちゃんは「みんなでひとつのことをやろう」と思っていたらしい。そして、「みんなが自分のやりたいことをやるように、私も店をやらなければいけない」とも。
私がわらじ荘でしたいことは、自分の表現の場ではなく、
「あのひとの表現の場をつくること」。
わらじメンたちは、みんな口を揃えて「あんなさんに『夢はなに?』『やりたいことは?』と聞かれた」という。
あんなちゃんは人の思いを聞いて、それを形にしていった時にその人の顔がよろこびに輝いていく、笑顔が見たいのだ。
がんばりすぎなくていい。完璧になろうと思わなくていい。
そんなあんなちゃんを見ていてさらに私が思うのは、「がんばりすぎなくて良いんだぞ」ということ。ゆるやかにつながる人の集まり、コミュニティの中心人物であるのはたしかだけど、彼女だってひとりの学生なのだ。
悩みながら試行錯誤して、また仲間たちの思いを聞いて軌道修正していく。
みんなが喜んでいる顔がみたいから、それがまたモチベーションになってがんばる、というあんなちゃんのきもちはすごくよくわかる。わかるつもりでいる。
だけど、間違ったっていいし、衝突したっていいし、完璧な人間になろうとしなくていいのだ。
弱音を吐きたくなったときの「安全地帯」のような人たちを彼女がたくさん抱えていることは知っている。私もそのひとりであればいい。
完璧な人間なんていないからこそ、人は人をいとおしく思えるのだと私は信じている。