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ヨガの喜び 沖正弘著

🔴ヨガは大きく分けるとハタヨガとラージャヨガの2つになる。
ハタヨガはスポーツ武道
ラジャヨガ 哲学的に真理を求める。
これに得育の3つを総合したものがヨガである。

🔴お腹に力を入れることが健康につながる。丹田
ヨガではウディアナ
中国では丹田
日本語ではハラ
この働きを高めれば、健康維持能力や生命力がたかまる。
肛門が閉まるようにする。
上半身にはチカラは抜けるように下半身に力が入るようにする。
常に日頃からこのことを頭に置いておく。

🔴足を大事にすれば病気にかからない。
足は歩行器であり、全身を支える土台であり血液循環の調節部であり、同時に全臓器とも関連性を持っている。

🔴手の指と同じように味のゆびを動かして病気を治すこともできる。
足の指は普段靴の中で締め付けられ自由にうごけないでいる。
足の一本一本の指を引っ張ったり反らせたり回してやるといい。
特に硬い指や変形したゆびは丁寧に触って治療する。

🔴雑念が次々と出でくるのをじっと見つめているのだ。
雑念を邪魔扱いしなけれぼ、雑念は雑念でなくなるのだ。
何回も続けていくうちに、雑念の生まれる時間は短くてなるはずだ。
そして雲が風に乗って流れ去ったあとの青空のような禅定をあなたもきっと感じるに違いない。

これはやろうと思えば誰にでも出来るはずだ。

🔴人間はなにかを突き詰めてやっていけぼ必ず自分の限界にぶつかる。
壁にぶつかった時こそ次への飛躍のへの唯一のチャンスである。
本当に打ち込んでいなければ壁にぶつかることもない。
自分のこと限界を自分から求めてゆく積極心が大切である。
壁にぶつかったら心を集中して何度でも挑戦する。
そしてもう打つ手がなくなり力を出し尽くしてこころを無にしたときに、壁の向こうが見え始めてくる。
だから自分が好きなとことん打ち込める何かを💡することは大切だ。

🔴第10段階 法悦行法 プラサード
プラサードとは本当の喜び、心の歓喜を意味するインドの言葉である。
サマディ、ブッディの境地を深めていくと、心から体からとめどなく法悦がわいてくる。
これはまさにこの世の極楽浄土である。
これは釈迦の悟りの境地であり、そこでは全てのものが善であり、喜びであり、光である。
本当の喜びとはなんだ。

私の喜び、あなたの喜び、そして神様の喜び、この三つが一つになった状態である。
私だけが喜んでも、あなただけが喜びを感じても、また、私とあなただけ喜んでも法悦ではない。
神様が喜んでくれないと法悦ではない。
法悦は聖人の喜びであり、聖なる世界にしかないものだ。
私の心が神様の心にならなければ、神様の喜びは感じられない。
神の願いを自分の願いとすることができたなら、それが神人合一ということだ。
悦とは真実、永遠の喜びの意味である。

人間としての思いやり、つまり『人情』を超えたところにある、神様の思いやり、いわば天情を身につけた時に人間は法悦を味わうことができるだろう。
その時ひとは宇宙全体からの祝福を、宇宙全体の喜びを感ずるのだ。
私はこの10段階目のみをヨガと考えている。

🔴誰もが満足でき、誰もが納得でき、誰もが喜べるような考え方を持ちながら生きる。
それご神の願いである。
小さな違いを超えて、大きな一致点において人間と人間、人間と世界を結びつける力、それを私は神と呼ぶ。
一切のものの中に、私たち自身の中に存在している。
あなたは神を見ることができるのだ。
そして自分自身の中の神を見ることができ、神の心を私の心にも見ることができる。
この神と自己の結びつきが宗教である。

ヨガの素晴らしさは、自己の中に神が存在する、その神を見よ、と教えていることである。

この神をみる心身訓練法のみがヨガ行法である。

全ての人間がこの一致点に目覚めたとき、そうだ!お前たち、偉いぞ!と宇宙全体が共鳴してくれるだろう。
私の言う神とは、宇宙の意志の事でもある。
大自然の生命力、創造力と言っていい。
大自然の破壊力もまた、その造像力のひとつのあわられだ。
四季の移り変わりでも、冬という厳しい破壊の季節を経て初めて、春という再生の季節を迎えることができる。
だから冬はたんに死の季節なのではなく、そこには既に生命の種子が隠されている。

人間の理想的な生き方とは、宇宙の生命力🟰神の願いを知り、その通りに生きることなのだと思う。
それがその人らしく生きるということでもある。
自然の法則、生命の法則は神の心である。
そして神の心とは愛のことだ。
神の願いは生かし合い共存共栄である。
調和によってのみお互いの生の喜びは実現できる。
お互いの結び合いがヨガの真意であり、これを実践するのがヨガ行法なのだ。

ヨガとの出会い
私がヨガと出会ったのは8才のの時だった。
ビルマ独立の父と言われたオッタマ僧正がおいでになった。
『お釈迦様はどうしてあんなに偉い人になれられたんですか?』
『ヨガをなさったからだ』
詳しくきくと
🔴教えには2つある。
人間を救う顕教と、人間を悟らせる密教だ。
顕教には教えを説いたテキストがあり、お坊さんや牧師さんがいて、分かりやすく教えてくれる。
しかし密教には先生も教科書もない。
そしてヨガは密教だと言うのである。
自分が自分を先生や生徒とする。
自分以外のものを先生とする。
全てを恩人とする。
自分のいる場所を学校とする。
日々与えられる全ての縁を教科書とする。
一生の間にどのくらい学ぶことができるか、実行することができるか、と言う自己発見の道、これがヨガだ。
なぜ分かりやすく教えないのかと言えば、教えてしまうと、相手はわかったつもりになって努力しないからだ。
自分で考えないからだ。

『わかりました。それではとにかく一生懸命やればいいんですね』

『ただ一生懸命やればいいのではない。
ひとつの事には、プラスになる方法とマイナスになる方法がある。プラスになる苦労をしていけば苦労したことによっていい方向にいくし、マイナスの苦労の仕方をすれば逆の惨めな方向に行ってしまう。
お前は今まで先生や両親や本から、色々教わっているだろう。これはいい、これは悪いと言うことは少しは知っているだろう。
それを実行するんだよ。
そしてそれを自分のものとする、身につける。このことを日本では躾と言っているだろう。それがヨガなんだ』
オッタマ僧正は子供の私でもわかるように、ヨガの基本を教えてくださった。

🔴ガンジーから学んだ生活ヨガ
オッタマ僧正より紹介状を携えてガンジー師に会いに行った。
師は南アフリカにいる時にヨガを学んだと話された。
方法を教えて下さいと言ったが、ヨガは密教だから教えることはできないし、私はヨガそのものの師匠ではないためヨガについてあれこれ理屈を並べるわけにはいかないし、そのような気持ちも持っていない。
しかし、生活そのものをヨガとして行じているから私の生活ぶりを見てヒントをつかみなさい。
と言われた。

ガンジー師はまず呼吸法をし、次にジョギングをして身体を温めて、それこら水浴した冷たい刺激をしておられた。
その後瞑想行法を日課としてされていた。
このように、緊張の後にくつろぎ、身体を使った後に頭を使うのは、1日の生活の中でバランスをとり、安定をはかっておられるのだとわかった。

師は、人の真似をしてはならないともおっしゃった。
原則は真似をしてもいいが、方法を真似をしてはならない。
お前にはお前のやり方というものがあるのだから、それを発見しなければならない。
なぜならば自分のものを発見しなければ安定しないのだよ。
自分の座り方、立ち方、走り方、食べかた、自分である自分をどのように活かしたら1番能力を発揮するできるのか、自分の生命を1番喜んでくださるような自分の使いかた、身体の使いかた、心の養い方、生活の仕方というものを発見することが、すなわち安定されることであり、それがヨガなのだ。と教えてくださったのである。

🔴信仰とは、自分のこと要求や条件を完全に放棄してしまい、与えられるままにうけとるお任せの境地である。
全ての縁を、神様のはからいとして受け取るのだということがわかってきた。
お任せの境地になると、全てが神の教えであり、神の愛だということが分かってくる。
こうして初めて、本当の意味の感謝心がけて生まれ、本当の意味の心の安定を得ることができる。
全てのものを喜びとして受け取れる法悦行法というものがわかったのだ。

🔴最後にヨガとは何か
その本質を言えば、ヨガという特別な考えも行法もない。
ヨガという言葉は、修養と修行と修業とをひとつにした、人間訓練法、教育法のインド的表現である。

『正直ヨガをしていながら、三昧とか味わったことがないし、わからないことだらけだ。
分かったつもりでいるだけで、分かっていない。
そんな私にはとてもわかりやすい内容だった❤️
ハタヨガも体が硬くてなかなかやれてないので、この本に書かれているポーズはそれほど難しくないので頑張りたい。もっと早く読んでいれば良かった本のひとつである。』


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Bluefairy chafu
ジャムスヒーンさんのように海のそばで1人アシュラムをしたいです。そして今世でアセンションしたいです。