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白い粒々と冷たいものと熱いもの

地面にびっしり落ちている雪を、脳内の関西人が「雪か?」と疑う。「私の辞書に『不可能』という文字は無い」ならぬ、「私の図鑑に、こんな雪は無い」のだった。
つまみ上げる。
大きすぎる。
それは鼻の穴に詰める綿球(脱脂綿を丸めたあれ)の如く。脳内の関西人が「詰めてみろ」というが、丁重にお断り申し上げておく。
離れて眺める分には普通の雪景色だが、近寄ればこのような、発泡スチロールを粉々にしたような雪が(雪なのだ)満遍なく粉糖よろしく掛かっていたりする。初めて気付いた時は、この新発見に随分興奮した。

発泡スチロールが粉々になると静電気で手や服に吸い付いて、振り払っても纏わりつき、たいへん厄介なものだ。家電や精密機械を保護している、それもひと昔ふた昔前の粒々の集合体が雑に見える発泡スチロールは、割れると殊更小さな粒が出やすい。その素材で出来た板が「小学○年生」という雑誌の付録に付いてきたことがあった。メインたる電熱線のお供としてだった。メインのほうに乾電池を入れ、スイッチを入れると導線が熱くなり、発泡スチロール板を自由な形に切り取る事ができるという、小学生的にたいへん科学的な豪華付録だった。
今考えると、小学生ひとりで扱う道具としては些か危ない付録ではある。出版社に親からクレームが行くのではと思うような。
ついでに記しておくと、自由な形に切り取れた記憶は無い。ただ不細工に切り散らかし、そこそこ面白がって終わった。棄てたかどうかの記憶もない。切り屑として散った発泡スチロールが手からなかなか離れず、ひとつ摘んではゴミ箱に運び、指先から離れないそれを振り落とし、手から離れたものが静電気で再びスイッと戻ってきて苦労した。という記憶だけが残った。故に、この電熱線の記憶は、オマケとして付いてきた発泡スチロール板のオマケとしてのみ現れる。ステレオの梱包を解いた時、冷蔵庫の梱包を解いた時、PCの梱包を解いた時、その生活の時々で思い出し、当時と同じように手を振り払い、引っ付かせ、煩わしさの中に電熱線も思い出す。
世の中には往々にして、主従の逆転する現象があるのだ。

その白い粒が今また目の前にある。神経細胞が手を振り払うが表皮までには及ばず、なぜならそれは0℃の冷たい雪玉だった。
またひとつ、目に付いた玉を手に載せる。
大きすぎる。
どんどん降ってくる。
当たると痛い。
家の中に戻ると轟音が響き、屋根の痛覚を我が皮膚のそれと想像したりする。実際の触覚は手に乗せたふたつの雪玉。
温かい掌に乗せてもなかなか溶けない固い雪玉だ。雪霰という分類らしい。地元の人は単に「雪」と言う。珍しくない、本当に単に雪なのだ。
雪国に来て30年近くになるが、まだまだ雪を面白がる自分を認識し、面白いと思っている。

ああ思い出した、電熱線の、その後。付録の板をあらかた切り終わり、次に台所の食品トレーを切り散らかした。ところが付録の電熱線では綺麗に切れなかったのだった。そこまで熱くなるものが付録になるわけがないのだった。


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