コロナの時代の生きづらさ 〜人には「異文化交流」が必要だ
2020年は、新型コロナ一色の一年だった。
そしておそらくはその影響で、2020年の日本の自殺者の数が11年ぶりに増加したという報道があった。
日本は、世界的に見ても自殺が多すぎる。
それはずっと言われてきていることだけど、こうやって具体的な数字が出てくると、その数の大きさにくらくらしてしまう。
記事によると増えているのは女性と若年者で、特に若者については、
「小中高生の自殺者は68人増の440人で、同様の統計のある1980年以降で最多だった。内訳は小学生13人、中学生120人、高校生307人。通年ベースで最も多かった86年(401人)を上回り、高校生についても過去最多だった。」(記事より引用)
これは「人数」でカウントしてるわけだから、ここ10年でどれだけこどもの数が減ったかを考えると、体感的にはこの数字以上に「小中高生の生きづらさが増している」ということが言えるのだろう。
コロナ禍で生きづらさが増したのは「女性とこども」(それでも男性の自殺者は女性の2倍、というのにも驚いたけど……)なのはなぜなのか、政府や教育関係者にはきちんと分析してほしいなと思う。
僕は、コロナのせいで移動や交流が減って、家庭という「密室」が強化されたことが原因のひとつなんじゃないかと思う。
こんなことを言うと「家族の絆は素晴らしい」と言いたい人たちには批判されるかもしれないけど、家族の絆を手放しで賛美する人たちにこそ、この現実に向き合ってほしいと思う。
「そうは言っても、それはこどもを虐待しているような、きわめて特殊な悪い家族の話でしょう?」と言いたい人も多いかもしれない。でもきっとそんな「他人事」の話ではないと思う。
僕はずっと「閉じた空間は危険」だと考えていて、それは最も健全な家族関係でさえそう。
親子関係が良好でも、ちがう人間なんだからときには意見が合わないことはある。そして親子には明確な「力関係」があるのだから、最終的には親に従わざるを得ない。
そうなれば、抑えつけられた弱い側にはストレスが溜まるのは当たり前だ。抑えつけられて反発するならいい方で、家庭以外の世界を知らないと親は絶対的な存在にしか思えないから、親に否定された自分は無価値な存在だと、信じ込んでしまう場合も多いだろう。
親だって完璧な人間ではないし、完璧な人間であれ、と言いたいわけじゃない。親だってストレスが溜まるし、判断に迷うことだってある。
こどもが、親と意見が食い違うのはひとりの人間として歩き出した証拠でもあって、それ自体は悪いことでもない。
親にとってもこどもにとっても、お互いだけが唯一絶対の存在であるということが、さまざまな息苦しさの原因になるということなんだと思う。
そういうときに世界が閉じていなければ、つまり外の風が吹き込む余地があれば、親を相対化できる。
つまりは「異文化交流」。「家庭だけが世界じゃない」ということを知るということ。
僕が前からずっと考えているのは、こどもや若い人が、たくさんの知り合い(できれば自分とはちがう環境で生きている人)をつくることが大切だということ。そして特に、親以外の大人と知り合う機会が増えたらいいな、ということ。
でもこのコロナの状況下で、新しく人と知り合い交流するのはとても難しい。
大人たちは今、なんとかインターネットや通信環境を使って人との交流を維持しようとしている。
でも親からすると、「こどもがインターネットで人と知り合う」のはとても不安なんだろうな。
その心配はある意味で正しいし、残念ながら世の中にはさまざまな悪意が存在していて、それを見分けるのは簡単ではない。
こどもより親のほうがインターネットに詳しかったりすると、親は心配でたまらないだろうな……。
一方でこどもの視点から考えると、親に監視されたインターネットでは「外からの風」にはなりえないだろうし。
なんとかして、狭い世界で苦しむ誰かにとっての「異文化の風」になれないかな、というのが最近の僕の関心。
まだまだ考え続けていきたい。