【ネタバレ有】THE LAST OF US PARTⅡのストーリーについての一考察

※当記事は、以下の諸作品のネタバレを多分に含みます。ご了承ください。
【映画】
・トイ・ストーリー4
・スターウォーズ EP8-9
・新感染〜ファイナルエクスプレス〜
【ゲーム】
・アンチャーテッド1-4
・ラストオブアス
【漫画】
・ワンピース
・進撃の巨人

1.はじめに


 全世界で絶賛された前作と比べ真っ二つに割れた今作の評価を見るに、否定的な意見を持った人らの中には、「『ラスアス1』のこんな続きが見たかった」という願望が根強くあったのだろうと思われる。この様な事態は、別に『ラスアス』に限らずどんな作品でも容易に起こり得る事である。記憶に新しいのは、『トイ・ストーリー4』だ。当シリーズには「おもちゃたちに自我がある事は人間に悟られてはならない」との鉄則があるが、4では特に終盤のおもちゃたちの行動が些か以上にそれに抵触しているというのと、「主人公ウッディがおもちゃである事を自ら放棄する=隷属状態から解放され完全なる“個”として自立する」というとんでもない展開に、心の整理が追いつかない人が多かったのではないだろうか。『3』までずっと携わってきた作品の生みの親が制作から離れただとか、社会的マイノリティへの配慮はデフォルトで必要だとか、一つの作品を世に出す前に考えるべき事が多すぎて何かとやりづらくなってしまったのは間違いないだろう。だが、その様な「大人の事情」を抜きにしても、「別にこれ『トイ・ストーリー』でやんなくて良くないか」という気持ちが拭えないのも事実だ。『1-3』までのシリーズものとしての完成度を考えれば、そう思われるのも当然だろう。

 ちなみに『4』に関する私見をここで述べておくと、ポリコレ云々以前に、自殺願望を搭載した躁鬱フォークの方がよほど子供に見せていいのか不安である(とは言え、「これも一つのポリコレです」と言われたら身動きが最早取れない)。当のフォークの性格が先天的である様な描写に加えて、それがストーリーを通じて改善されていく訳でもない(この点がバズと決定的に異なる)。「フォーキーに関してカタルシスを用意しないのは、(その先天性故に)そもそも改善する必要がないものだから」と言わんばかりで、都合の良いエクスキューズに感じてしまった。ただ、フォークの創造主たる子どもがアンディとは明らかに異質であるという主張には非常に納得できる部分があった。またウッディの悲哀も大人であれば少なからず共感できるところではある。総じて、共感できる部分はあるが、今の世に即した作品作りにばかり注力したが故に生じた歪さが「トイ・ストーリーらしさ」を損なわせる結果になってしまったのだと思われる。続編を作ると言うのは、ことほど難しい事なのか。

 さて、話を『ラスアス』に戻すと、『アンチャーテッド』シリーズ(以下、『アンチャ』)以来のコンセプトである「プレイする映画」として開発されたのが前作である。『トイ・ストーリー』同様、今作のハードルを上げていたのは言うまでもなく前作の完成度の高さである。その為、今回のレビューは、次の様に論点を整理しつつ展開したいと思う。

  ・前作の何が良かったのか
  ・それを踏まえ、今作はどうであるか
  ・今作の意味とは何か
  ・おまけ

2.『ラスアス1』の何が良かったのか


 『ラスアス1』は先述の通り「プレイする映画」というコンセプトのもとに作られたゲームである。この「映画」という形態が実に独特で、ゲームによくあるマルチエンディングが存在しない。畢竟、プレイヤーはゴールまで決められた一本道を辿る事になる。映画をプレイしているかのように感じる重厚なストーリーを有しており、かつエンディングが多数存在する洋ゲーとしては『HEAVY RAIN』が挙げられよう。当作は連続殺人犯に息子を誘拐された父親と、それを追う探偵やジャーナリスト、刑事を操作して事件の真相に迫っていくゲームなのだが、プレイヤーの選択によってエンディングが分岐する。その様なゲームとは異なり、ただ一つの結論を提示する『アンチャ』や『ラスアス』には制作サイドの強い拘りが感じられる。拘りとは、すなわち説得力である。『ラスアス1』は、ストーリー的には王道の中の王道でありながらも、最後の最後にそれをすべて覆しても説得力のある作品であった。その点がただただ凄まじかったのある。

 実際に統計をとった訳ではないが、映画作品において親子関係が描かれる時、「父と娘」は非常に数多く見受けられるが、対して「父と息子」はどれだけ作品が浮かぶであろうか。さらに「母と息子」や「母と娘」はどうか。近年の作品で言えば、『インターステラー』や『LOGAN』、『新感染〜ファイナル・エクスプレス〜』などはいずれも「父と娘」の関係を軸とした名作であった。『ラスアス1』は、パンデミック発生時に最愛の娘サラを失った主人公ジョエルが、エリーと出会った事で再び父親になっていく物語だ。この「父親になっていく」というのが肝で、ジョエルにとってエリーは当初「仕事で目的地まで送り届けるべき存在」であって、それ以上でもなければそれ以下でもなかった。それが道中の苦難を乗り越えていくことによって2人の関係に変化が生じていき、「ここは私に任せて先に行け」枠で果てたテスや「自分らもいつこうなってもおかしくはない」枠で果てたヘンリーとサムの犠牲の上に立ってもなお、「世界の命運を投げ棄ててでもエリーを選択する」という「一本道の果ての結論」に、誰しもが自らを重ねてしまったのだ。これは構成の妙としか言いようがないであろう。年端のいかない少女が自分の最後の日が来る順番をただ待つだけの世界で、ジョエルの選択を責めることなどできようか。四季の変化で章を区切る事によって時間の経過が直感的に分かりやすい構造となっている事も手伝って、「万人がシンプルに没入していく」前作は誰もが認める名作と評価されたのである。

 この様に、前作はプレイヤーが段々と「ジョエル化していくゲーム」である。メタ的な視点から言い換えるのであれば、「我々がジョエルに感情移入してしまうのは、そうなるようにデザインされているから」である。すなわち『ラスアス1』は、「鑑賞から体験に移行していく」映画なのである。どんなRPGでも、プレイヤー自身が主人公を操作して話を進めていくのものだ。「鑑賞→体験」型の映画と相性が良い事は言うまでもない。『アンチャ』シリーズにおける「体験」は、どちらかと言えば3Dアクション映画のそれに近いものであったが、『ラスアス1』においてプレイヤーはジョエルの心情に深く深く入り込んでいく。ここに今作との最大の違いを見る事ができる。驚くべき事に『ラスアス2』は前作の真逆、プレイヤーが主人公を操作するゲームでありながらも「体験から鑑賞に移行していく」形式を採用しているのである。今作の評価が割れた最大の要因はこの点にあると思われる。詳しくは次章で見ていきたい。

3.『ラスアス2』はどうであるのか


 それでは、『ラスアス2』が「体験→鑑賞」型のストーリーであるとはどういう事か、具体的に見ていこう。序盤でジェエルが惨殺されるシーンは、前作ファンには相当なショックをもたらした事と思われる。さらに衝撃だったのは、エリーの眼前でジェエルを殺した張本人であるアビーを操作するパート(以下、「アビー編」)が待ち構えている事である。彼女に感情移入できるかどうか、これは人によるとしか言いようがない。だが前作キャラクターへの思い入れが強ければ強いほど、仇を操作する事自体を苦痛に感じる人が多数いるのも無理のない事である。ただここで重要なのは「アビー編の存在をどの様に捉えるべきか」なのであって、その一解釈として提示したいのが「体験→鑑賞」のステップなのである。物語前半のエリーパート(以降、「エリー編」)に自らを重ねていたプレイヤーは、後半ショットガンでアビー(=プレイヤー)を本気で殺しにくるエリーを見て、エリーがどの様な存在として他者から映っているのかを知るのである。エリー編で操作していたはずの女性は、いったい何者なのだろうか。よく知っているはずなのに、これが分からなくなってくるのだ。これは、我々プレイヤーが神の視点にある事を利用した「主人公エリーの客観視」に他ならない。彼女を客観視する事で初めて、我々は『ラスアス』という一つの世界を「鑑賞」するのである。

 アビー編をいやでも操作させられる事を根拠に、感情論に任せた批判をするのは容易い。だが、アビー編をプレイする事で我々がどの様な気持ちになるのかなど、開発サイドからすれば百も承知のはずである。それをあえてやった事には、大きな意味があると思われる。これについて、登場人物らの思想的背景を追いつつ見ていきたい。

3-1. 思想への挑戦


 今作のレビューにいくつかあたってみたものの、登場人物の思想的背景にまで触れられているものが見受けられず、安易なポリコレ非難に留まってしまっているものがほとんどであった。ハッキリと言うが、やれポリコレだなんだと喚き散らす事ほど滑稽なものはないし、今作に関してはキャラクターの表層しか見えていないと言わざるを得ない。ポリコレとは本来、物語の制作サイドによってあくまで「自主的に為されるべきもの」であって、「義務的に為されなければならないもの」ではない。ただ、「どの程度気を遣うのが適切であるのか」という問題が常に付き纏ってもいる。例えば、『最後のジェダイ』における根本的な問題は、「整備士ローズがアジア系の女性だった事」ではなく、「彼女の存在する必要性が皆無な脚本だった事」である。『スカイウォーカーの夜明け』においてローズがほぼいなかった事にされても別段問題なかったのは、前作で物語の核心に彼女が一切関わっていない事の証左である。この点をもって安易にポリコレ問題にすり替えてはいけないし、演者のケリー・マリー・トラン氏を誹謗中傷するのはもってのほかである。確かに、「物語上の必然性のなさが過剰なポリコレを感じさせる」と言う意見も分からなくはない。だが、現代社会のセンシティブな側面に対しては、受け手にも相応の知識と教養が求められて然るべきだ。と言うか、『進撃の巨人』や『ワンピース』など、世界的にも人気のある日本の漫画の中にもポリコレはあるのに、それが取り沙汰されないのが不思議でならない。『進撃』のミカサは104期生の誰よりも強いし、ハンジに至っては性別が未だに判然としない。『ワンピ』では、ワノ国編にて登場した四皇カイドウの子ヤマトはトランスジェンダーである。同じくワノ国編にて初登場した「飛び六砲」うるティと比べてもヤマトは「女性的ではない」し、ビッグマムの方がよほど女性的ですらある。要は、気づいていないのだ。気づいた時だけ、都合良くアレルギーが起こっているのではないか。ポリコレに石を投げる行為は今のコロナ渦にも通じるものがあろう。それは正義ではなく「正義を騙る無自覚な暴力」である。

 ポリコレに関して私見を述べたところで、本題に入ろう。まず主人公の同性愛描写に関して。正直なところ今更何を騒いでいるのかとも思うのだが、そもそもエリーは同性愛者である。前作の追加ストーリー『のこされたもの(原題:Left Behind)』をプレイしていればそれは明白であるし、前作の本編中にも同性愛者が登場している。故に前作からしてポリコレ要素は多分に含まれていた訳だが、エリーの同性愛に関する直接的描写は本編にはないし、ジョエルとの擬似親子的関係が主軸となる為にそれが「見えづらいもの」であったのは間違いない。その為、今作はそれがありありと前面に出ていると感じる人もいるのかもしれない。だが重要なのは、「多様な価値観が脚本の中に落とし込めているかどうか」に尽きる。その点に関して、今作は複雑な構造をとりつつもそれらが絶妙なバランスで成り立っている。そこで、メインの登場人物たちのジェンダーや思想について整理してみたい。

 上図の「なし」及び「不明」の項目について。エリーはディーナの信仰心に対して、またアビーはレブの信仰心に対して、いずれもあまり関心の無さそうな反応を示しており、彼女らが特定の宗教を信じていない事が伺える。ジェシーに関してはその様な描写が見受けられなかった為「不明」である。これはヤーラのジェンダーについても同様である。こうして見ても、エリーの同性愛が不自然でもない「ワンオブゼム」である事が分かるだろうし、ジェシーを「普通の人」と表現するのも最早ナンセンスだ。さらに本作で描かれているのは、これらメインキャラクターのジェンダーの多様さだけではない。むしろその根幹にある「思想」や「信念」にこそ注目すべきである。

 エリーは芯が強いように見えて、実はそうでもない。前作のエリーを操作するパートでそう感じたのは、恐らくは「何があっても目的地まで辿り着く」という大いなる目標が支えとなっていたからであろう。エリー編の回想にて、ジョエルが前作ラストの病院で何があったかをエリーに告白するシーンがある。つまりエリーは、彼が前作のラストで何をしたのかを知ってしまった事が明らかになる。今作ラストのエリーとジョエルの会話から考えるに、エリーにとって自身の持つ免疫からワクチンが作られる事こそが「自らが生きた意味」であった。だがジョエルによってそれを奪われたと捉え、彼に対して怒りを覚えると同時に「自分は何者であるのか」というアイデンティティが根こそぎ無くなってしまったのである。エリーの「アイデンティティの不在」は今作を通じてのテーマであると思われるが、それについては後述する。それ故に、エリーがディーナに向ける愛は、いわば心にぼっかり空いてしまった穴を埋める「逃避」ないし「依存」であり、一方ディーナはそれを受け容れるだけの懐の深さを持った人間として描かれている。ジョエルが死んだ事で一層情緒不安定になっているエリーに対して、礼拝所の廃墟にてディーナが信仰告白をし、「(祈る事で)気持ちを整理できる」と説くシーンは印象的である。ディーナは間違いなくエリーの恋人であったが、初めからどこか「母親的」なのである。だが今作は主人公の「逃避」を拒絶する。エリー編の中盤にてディーナの妊娠が発覚する訳だが、これによりディーナには「女性としての役割」が明確にできてしまった。つまり、ホモセクシャルの向かう先にバイセクシャルを配置する事によって、「主人公の恋愛感情が未成熟な精神の裏返しである」事が浮き彫りにされていくのである。

 一方で、もう一人の主人公であるアビーもまた、エリーと同様に宗教への関心を持たない(ただエリーとは異なり、「教え」に対する歩み寄りを見せる場面がある)。元恋人のオーウェンとの関係もある種の「逃避」と考える事もできよう。ただエリーと大きく異なるのは、コミュニティへの帰属意識の強さである。彼女の所属する「ワシントン解放戦線(W.L.F.、通称『ウルフ』)」は厳しい規律を持った軍事的組織であり、「生き抜く力を そして安らかな死を」という仲間同士の合言葉や鍛え抜かれた肉体からは強い連帯感と強靭なメンタリティを感じさせる。これらを踏まえれば、「女性なのにマッチョだ」などとは到底思えない。余談だが、『アンチャ4』に登場する民間軍事会社「ショアライン」のリーダー・ナディーンにしても、ネイトとタイマンを張って生き延びている程のマッチョである事からして、ノーティドッグの発表した作品の中で見ても、アビーにのみ特有の体格とは言い難い。さらに、「『全員ぶっ殺してやる』と復讐心に燃える人間を果たして生かしておくか」との批判を受けている部分ではあるが、冒頭でアビーがエリーを見逃したのは「エリーが復讐の対象ではない」との信念に由来する。確かにオーウェンやメルをエリーに殺された事で激昂するが、それによってアイデンティティの危機に陥る事はなかった。エリーとの対比で語るのであれば、アビーは精神的に成熟した大人であり、宗教への関心を最後まで持つ事はなかったものの「セラファイト」の教えの何たるかを理解していく下地が既にあったと言える。アビーは、本来ならば敵対関係にあるカルト教団に属する2人を助けに行く動機を「(見捨てる事に)罪悪感があったから」と説明し、ヤーラの治療の為に最終的には「ウルフ」に背き「最初の感染者」まで単独で撃破するほど献身的なキャラクターである(「ウルフ」に背いた要因としてはオーウェンも外せないが割愛する)。アビー編で彼女を操作すればするほど、「ここまでやるほどの事か」と思えてくる。ここに一つ重要な気づきがあるように思われる。すなわち、アビーとは「もう一人のジョエル」なのである。これは本作のラストでアビーがレブを抱きかかえるシーンがかつてのジョエルと重なって見えてくる事、加えてそのシーンの直後にエリーの脳裏にジョエルがよぎる事などからも間違いないであろう。

 アビーの助けた2人についても触れておこう。レブは肉体的には女性であるが、精神的には男性である。レブという名前すら本名ではない。ヤーラもレブと共に非常に保守的な教団の中で育った訳だが、教団よりも個人の主張を尊重する点で進歩的思考の持ち主と言える。アビー編をプレイしているとアビーの目線になる為、「(レブは)掟に則った婚姻を拒否して頭を剃ったから『掟破り』として迫害される身となった」とヤーラに聞かされた時は正直なところ「たかがその程度の事で?」と感じられたが、じっさい本当にくだらないのである。「レブが男性的な振る舞いをする事すら禁じられ得る」という一点だけで教団の狂気が伝わってくるからだ。だが興味深い事に、レブもヤーラも「教団は捨てても信仰心は棄てていない」のである。それは、アビーの目の前で木の幹に彫り込まれた教祖の像に向かって「教祖様、お導きください」と祈りを捧げるシーンから窺い知る事ができる。「男らしさ」や「女らしさ」に固執し、習わしが形骸化してしまった教団それ自体と、各々の抱く信仰心は別物である。考えてみれば当然の事なのであるが、例えば現実でも過激派による自爆テロ事件が起きた時、「これだからイスラムは怖いな」ととかく安直な感想を抱きがちではなかろうか。多くの場合、我々に知識が足りておらず「なんとなく怖い」のである。結果として、レブのトランスジェンダー描写は、「カルト教団の悪習のみを露わにするもの」として有効に機能している。

 さて、以上の事を踏まえた上で強調しておきたいのは、エリーの逃避的恋愛、「ウルフ」の合言葉、「セラファイト」の聖句が、「立ち返るもの」という意味で類似しており、各々が最終的にコミュニティから離れていく点まで共通している事だ。この「似ている」という直感は、エリーもアビーもレブも「違う様に見えて、実はみな同じなのではないか」という確信へと変わっていく。

3-2.「宗教の便益」と「同じである事」


 エリーとアビーという2人の主人公の傍に宗教的信念を持った人間を配置したのは、「宗教の持つ効能なり便益が『ラスアス』の世界においてもなお有効に機能しているのではないか」と制作サイドが考えた結果であろう。科学がこれだけ発展している現代社会においても、依然として宗教が存続しているのだ。パンデミックによって世界の文明がストップし、感染者や他のコミュニティとの抗争に怯えながらも生きていかねばならない人間たちのメンタリティに、むしろ宗教が寄り添っていない方が不自然であると言えよう。

 さて、ここで2つの本を紹介しよう。リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』と、ジャレド・ダイアモンドの『昨日までの世界』である。『神は妄想である』では、現代社会における宗教のあり様に対して徹底してネガティブなスタンスを取っており、宗教の持つ負の側面を強調する形で論を展開している。中でも、第9章「子供の虐待と、宗教からの逃走」では、両親の子どもへの宗教の強要が宗教のもたらす害にあたるとしている。 

子どもは、他の人間―その他人がどういう人間であれ―の悪い考えに晒されることによって心の自由を妨げられてはならないという、人間としての権利をもっていると、私は言いたいのです。それゆえに子供の親にしても、どんな形で個人的に選んだやり方であれ、自分の子供をその文化の型にはめる神から授けられた権利をもっているわけではありません。自分の子供の知識の範囲を制限し、ドグマと迷信が支配する雰囲気のなかで育て、あるいは自分が選んだ信仰の狭い真っ直ぐな道をたどるように強要する権利をもたないのです。(ドーキンス、pp.478-479)

 ドーキンスは一貫して、宗教に対する科学の優位性を説く。子供が科学的根拠に基づく教育を施され、物事を(科学的に)正しく理解する事が可能となった段階で、初めて宗教に向き合うのが子供の「特権」(ドーキンスp.478)だとしている。なるほど確かに、選択の自由なしに「セラファイト」内部のみで子供らの一生が完結するのだとしたら、ドーキンスの主張する様な害悪がもたらされ得るだろう。教祖が死んでから信徒たちが暴走を始め、あらゆる面で未成熟な子供への婚姻を強要する教団は、「宗教の害悪」を多分に含んでいると言える。だが、これだけではレブの持つ信仰心の説明ができない。そこで考察の手助けとしたいのが、ジャレドの『昨日までの世界』である。ジャレドは第9章「デンキウナギが教える宗教の発展」において、機能主義的アプローチに基づき宗教が信者にもたらす便益を以下の様に定義している。

  ①事象についての超自然的な説明
  ②儀式によって不安を解消する
  ③苦悩や死に対する恐怖心を癒す 
  ④制度化された組織
  ⑤政治的服従の説示
  ⑥同胞の他者への寛容
  ⑦異教徒に対する戦闘行為の正当化
       (ジャレド、p.261をもとに作成)

 ジャレドによれば、これら宗教の諸機能は時代が変化するにつれ低下していくのだという。『ラスアス』の世界においても、パンデミック前夜までで考えるならば、少なくとも①は特にそうであろう。だが、物資が極端に枯渇し、加えて感染者や他コミュニティとの終わらない戦いを強いられる世界においては、②や③、⑦などの役割はむしろ増していくと思われる。「宗教の癒しの役割は、不幸な目に遭えば遭うほど、人はより信心深くなるというしばしばみられる傾向を説明してくれる」(ジャレドp.233)のだとすれば、『ラスアス』の世界における理不尽な暴力が不可避的なものであればあるほど、宗教の提供する癒しもまた重要な位置を占めるようになっていったと考えられるし、「セラファイト」の人吊るしも⑦の暴走であると捉える事ができよう。

 さて、長きにわたり抗争を続けている「ウルフ」と「セラファイト」について、今一度彼らのモットーを思い出してみよう。吹き替えだと分かりづらいが原文を見ると非常に似通っている事が分かる。

 強調しておきたいのは、いずれも「生き抜く事への祈り」が根幹にある点。文頭に置かれる"may"の用法は「祈願」であり、「~でありますように」という他力本願として訳される。あれ程までに高度な文明レベルを維持している「ウルフ」ですら、兵士に対しどの様な死を迎えるかまでは説明できない。人に殺されるならばまだしも、感染者に噛まれればその後半永久的に感染者として彷徨い続ける為、「速やか(be swift)に死ねますように」と言っているのであり、「セラファイト」にしても他者に死を与える事を「解放された」とみなしている(ただし、これは殺害に対する方便ともとれる)。以上の事から、各々のコミュニティのあり様について、両者には信念の類似性が認められる。

 対して、エリーはどうであるのか。エリーは早々にジャクソンを放棄している節がある為、ここからは個人のレベルで話を進めてみたい。先述の通りエリーは無宗教であり、物語の終盤まで一貫してディーナが彼女にとっての精神的支柱であった。一方で、コミュニティを抜けてからのアビーにとっては、レブがその様な存在になっていく。重要なのは、「どちらがより優れているのか」ではない。そうではなく、みな「同じ」なのであり、じっさいその様に描かれている。エリー編とアビー編、それぞれの構成内容を振り返ってみよう。

 いずれのパートにおいても、度々愛する者との日々が回想として差し挟まれる。エリーとジョエルは親子として、一方アビーとオーウェンは恋人として。中でも博物館の廃墟と水族館の廃墟でのやり取りは非常に感動的であった。ジョエルが恐竜に帽子を被せるシーンのみならず、アザラシがカップルの前に現れるシーンもまた、前作終盤のキリンを彷彿とさせた。それぞれの舞台で深められる絆に、いったい何の違いや優劣があると言うのか。これらの出来事が彼らにとって何ものにも変えがたいものであるが故に、それらが本編ですべて奪い奪われる展開が大きな喪失感と絶望感を生み出す事は言うまでもない。ここにアビー編によって我々にもたらされる「鑑賞」の意義を確認する事ができる。つまり、アビー編の存在よって当初「体験」していたはずのエリー編は相対化され、アビー編のラストにおいてエリーを敵として倒さねばならない展開を迎える事で「鑑賞」は最高潮に達する。前作であれほど「守るべき存在」として共に生き抜いてきた彼女が、パッケージのごとく悪魔に見えてくる。この展開に当初はただただ動揺していたのであったが、本記事を書くにあたり思い出したのは『進撃の巨人』であった。

 『進撃の巨人』のマーレ編は、気づきの物語である。「超大型」のベルトルト、「女型」のアニらとともに壁の中に潜入した「鎧」のライナーは、始祖奪還作成に失敗し祖国マーレへと帰還する。マーレに帰還してもなお、周辺諸国との戦争に幾度となく駆り出されるライナーの心の傷は癒えない。次世代の戦士候補生たちとのささやかな日常にかつての104期生との日々を重ねてしまうほどだ。だがそこには、かつての仲間であった「始祖(進撃)」のエレンが潜入していた。マーレ編は、「ライナー視点で描かれるマーレの日常をエレンが後ろから(=読書目線で)見ている」構造をとっている。そこでエレンが得た知見は、今作のエリーとアビーの対比から得られるそれと類比的に語られ得ると思われる。すなわち、「俺たちは『同じ』だ」という気づきである。

「確かにオレは…海の向こう側にあるものすべてが敵に見えた。そして…海を渡って敵と同じ屋根の下で敵と同じ飯を食った。ライナー…お前と同じだよ」
「もちろんムカつく奴もいるし、いい奴もいる。海の外も、壁の中も、同じなんだ」
「だがお前達は、壁の中にいる奴らは自分達とは違うものだと教えられた。悪魔だと、お前らエルディア人や世界の人々を脅かす悪魔があの壁の中にいると…。まだ何も知らない子供が…、何も知らない大人からそう叩きこまれた」
(諌山、25巻pp.74-76よりエレンの台詞のみ抜粋)

 両編を並べる事で見えてくる同一性は、なにも主人公同士に限った話ではない。たとえば、エリー編において新たに戦闘に組み込まれた要素である犬。これが非常に厄介で、「あのノーティドッグが犬を殺さないと自分が死ぬゲームを作ったのか」と制作サイドの正気を疑ったのだが、アビー編に移れば犬たちは非常に愛らしく駆け寄ってくる。「ウルフ」の戦士たち一人一人にも人生がある。エリー編ではヘイトの対象でしかなかったノラやマニーにしてもみな「同じ」人間であり、ドーム内で教育を受けていた子供らもジャクソンの子供たちと「同じ」なのである。事程左様に「同じ」である事を突きつけられ、いよいよ最後の戦いが待っているのであるが、そこまで我々に「鑑賞」をさせてきた今作のラストにおいて、果たしてエリーは何を得たのであろうか。

4.今作はどんな物語であったのか


 本章では、今作が「許しの物語である」という観点から、エリーが「許しの先に得たもの」を考えてみたいと思う。本編ラストの回想にて、エリーがジョエルに対して「(病院での件を)許したいとは思っている」と言った事からも、「許す」事が物語の鍵になっているのは間違いないのであるが、回想の吹き替えでは「エリーが具体的に何を許せずにいるのか」が少々理解しづらい為、当該箇所を原文で見てみよう。

 「生きた証」という吹き替えでは、「自身の生きた意味」とも受け取れるし、「後世語り継がれる英雄」とも解釈され得るが、①と②を踏まえれば単純に前者と考えて良いだろう。①の"be supposed to do"とは「そうするはずであったが実際はそうならなかった」という意味を含んでおり、②の仮定法過去完了"whould have p.p."と合わせて考えれば、「私の命は重要なものとなったはずであった」と解釈するが自然である。そして、③でその機会をジョエルが奪ってしまったと言っている事から、エリーは「自分の命が価値のあるものとは思えない」状態になっていると考えられる。これが、前章にて述べたエリーの「アイデンティティの不在」の正体である。

 それでは、エリーに残っているものは何だったのか。それは他でもない「ギター(歌)」と「ディーナ」であった。ギターはジョエルを象徴するアイテムであり、同時に「歌う」という行為は非常に人間的な振る舞いでもある。映画『新感染』では、ラストシーンにおいて、ゾンビになってしまった者とそうでない者を分かったのは他ならぬ「歌」であった。人間であるからこそ「言葉をリズムに乗せて歌う」、すなわち「意味のある音を発する」事ができるのであり、じっさい彼女の弾き語りスキルは恋人の前で遺憾なく発揮されていた。だがアビーとのラストバトルの後、家に戻るとそこにディーナの姿はなく、加えて指を失った事で満足に演奏する事もままならなくなってしまった。結果だけを見れば悲惨そのものであるし、夢も希望もない終わり方の様に見えるが、本当にそうであろうか。ここで、「エリーがアビーを見逃す事によって彼女にもたらされたもの」を考察するにあたり、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』を参照したい。『デミアン』において、主人公シンクレールは第一次世界大戦という激動の時代を生きるのであるが、そこで重要な役割を担ったのは「アプラクサス」という名の神である。

「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」(ヘッセ、p.145)

「人々はこの名をギリシャの呪文と結びつけて呼び、今日なお野蛮な民族が持っているような魔術師の悪魔の名だと思っているものが多い。しかしアプラクサスはずっと多くのものを意味しているように思われる。われわれはこの名をたとえば、神的なものと悪魔的なものとを結合する象徴的な使命を持つ、一つの神性の名と考えることができる」(ヘッセ、p.147)

 「アプラクサス」とは二面性の神であり、これに近づく(=卵から脱する)には、善性と悪性それぞれの偏りから抜け出さなければならない。なぜこの超克の神を持ち出したのかというと、本作の随所に見られる「蛾」が、「繭から羽化し成虫となる完全変態の昆虫」であり、それが「アプラクサス」と重なるように思えてならないからである。

 本作中、蛾は「ロード画面」や「エリーの刺青」、「エリーの日記」、「最後に弾くギター」において確認する事ができ、さらには序盤でエリーが勉強中に聴いている曲"Through The Valley"のジャケットにも蛾が描かれている。ここで蛾の持つ象徴的な意味について触れておくと、光走性の本能から「思慮のなさ」、また完全変態から「再生」のイメージが導出される。ジョエルを目の前で殺された事で復讐心に憑りつかれ、本能の赴くままに敵を殺していく様はエリー編で「体験」し、アビー編で「鑑賞」した通りである。この蛾のイメージは、前作の蛍と非常に対照的である。蛍は英語で"firefly"であり、自ら発光する所から着想を得、人類を導く光となるべくして「ファイアフライ」と名付けられた組織は、我々のよく知る所である。アビーとレブが「ファイアフライ残党=希望の光」を目指して旅を続けているシーンは、エリーと比べてあまりに眩しい。さて、ラストバトルにおいてエリーはアビーを殺さない選択をするのであるが、その刹那に「許したいと思う」とジョエルに語った過去を思い出している事から、エリーの「許し」はアビーに対して実践されたと見る事ができよう。すなわち、ジョエルの仇であるアビーを自らの意志によって許す事で悪なる憎しみの連鎖を断ち切り、ジョエル(ギター:父親の象徴)やディーナ(逃避:母親の象徴)との決別によって善なる幻想を断ち切る。両面それぞれを超克する事で、エリーは自らの繭(=世界の卵)を破る事ができたのである。

 また最後の場面においても、「鑑賞」の視点が存分に活かされている。エリーはギターを残し、また我々のコントロールさえも離れ、どこかへと旅立つシーンで本作は終わる。ルソーは「人は二度生まれる。一度目は存在するために。二度目は生きるために」と言ったが、「アイデンティティの不在」を乗り越え「再生」を果たしたしたエリーの「生きるための旅」は、ここから始まるのである。

5. おまけ


 今作を最後までプレイした結果、マインドクラッシュを喰らった時の海馬瀬人みたくなってしまった不動は、レビューを書くにあたり人格を幾つかに分け、日夜脳内会議を行なっていた。「物語の構成に面食らった自分」、「ストーリー見返してたら涙止まらんくなった自分」、「スッカスカな批判にプンスカプンな自分」、「なんか冷静な自分」と面子は様々であるが共通するのは皆めんどくさいオタクである点。それはそう、元からしてめんどい奴なのだ。

「はい、それじゃあどんな風に書いてくか決めましょうね」
「いやぁ〜すごいわぁ〜。あんなキレイにしめた一作目のラストの続きでこんなん持ってきますふつう?パッケージのエリーもう直視できないわーこわいわー」
「おおおおおおおんんん」
「うるせぇいつまで泣いてんねん。だいたいな、ありのままを享受しろっつー話なんや。なーーにがレズはクソや、お前らの方がよほどk…」
「ああーーーーーいけませんいけません今のなし」
「おおおおおおおおおおんんん」
「確かにアビー編まぁまぁ長かったから苦痛に感じた人も多いと思いますわ。でも良い奴なんですよアビーは。『ただのNTRゴリラじゃねぇか』って言う人の気持ちも分かる、分かりますよ?でもね、前作思い出してみると僕らも大概なんですよ。だってアビーのパッパの事、こんがり焼きましたよね?なんならちょっと悦に浸ってませんでした??『汚物は消毒だー』みたいな。僕らも立派な加害者なんですよ」
「それなて。まぁあの世界での幸せってのも難しい話やねんけども、前作のラストをご都合すぎやしないかって思っとった層も少なからずいる訳や。今にして思えばある種の幻想やったなあれは」
「おおおおおんんんその幻想をぉぉぉおおおおんんんん」
「やかましいねんギンタかお前は。サブカルクソギンタか」
「そうですね。あのエンディングを続編で破壊し尽くすなんて事、なかなかできません。ほら、深夜アニメでもあったでしょう。めちゃくちゃ爽やかな男女5人の青春譚、あれ公式がメインキャラの1人をシングルマザーにしちゃって…」
「おい、○ari ○ariの話はよせ」
「あれは萌えアニメっていう前提からして幻想的な物語やから炎上すんのはしゃーない。今回のはまぁエリーが羽化するには必要な儀式だったんやと思う」
「ですね〜。結局あまりに辛すぎるラスアス式イニシエーションだった訳で。パート3やるにせよ彼女はもう出てこないかもですね」
「ではとりあえず他レビューにない切り口で書いていって、最後はエリーの人としての成長の物語でした、で締め括る感じで終わりましょうかね」
「ジョエルゥウウウウウウウアァァアアアアア」

「「「だからうるせぇんだよ!!!」」」

※ さいごに
当ブログはいわゆる「詐欺予告」に関するコメントは受け付けておりません。今作は「許しの物語」、そうだろう?もう許せ。許すんだ。

今度こそおしまい!最後まで読んでくれてありがとう!!

【参考資料】

◎書籍
・ヘルマン・ヘッセ『デミアン』、新潮社、2004年
・リチャード・ドーキンス『神は妄想である』、早川書房、2007年
・ジャレド・ダイアモンド『昨日までの世界 上・下』、日経ビジネス人文庫、2017年
・諌山創『進撃の巨人』第25巻、講談社、2018年

◎動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27427121
今回の記事を書くにあたり、「エリーってシンクレールだよなぁ」と思い、この動画を思い出しました。タイトルはアレですが、かなり面白いです。論証の手順や文献などはこの動画の影響をかなり受けていますが、要は『ラスアス2』を『デミアン』だと解釈した訳です。

https://www.youtube.com/watch?v=QAZ8LbvrX2w
ストーリーの解説としては、この方の説明がかなり丁寧です。私も彼に概ね賛成ですが、トミーの扱いに対してはそこまで気にはなりませんでした。

https://www.youtube.com/watch?v=A4P7zrswKUo
『ラスアス2』へのポリコレ批判に関しては、こちらの動画がかなり分かりやすいかと思います。彼の生放送時の実況もアップされているようです。

・https://youtu.be/xXcKSLijghs
原曲です。沁みます。


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