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いつ死んでも大丈夫。

ここ数年、ずっといつ死んでも大丈夫と思いながら生きている。

と書くと、なんだかとても悲観的に受け取られてしまうかもしれないけれど、全然そんなことはなくて。後ろ向きでも厭世的でもなく、もっとさっぱりした、よく晴れた日にベランダいっぱいに洗濯物を干したときのような気持ちで、いつ死んでも大丈夫と思っている。

子どももいないし、結婚する気もない僕には、遺す家族はいないので特に心残りもない。両親は共に健在なので、一応両親が生きているうちは頑張らなきゃな〜と思ってはいるものの、言うて40まで生きたのでお役御免だろうみたいな開き直りもなくはない。

(ちなみに先日、「この年になってもまだ子どもに先立たれたら悲しい?」と親に聞いたら「普通に悲しい」とわりと真顔で言われた。親はいくつになっても親だし、子はいくつになっても子なんだなと思った)

やりたいこともまだまだあると言えばあるけれど、かといってそれらが叶わなかったところで、今さら自分の人生の価値が下がるようにも思えない。幸い、今まで自分のやってきたことに対して、できなかったことも含めて、おおむね納得している。

だから、これから先に描いている人生のビジョンはほとんどボーナスステージみたいなもので、ちょっと番外編を生きているような感じ。若い頃、自分の心を占めていた「何者かにならなくては……!」というような強い執念が全然生まれてこない。

というか、何をやり遂げられても、何を果たせなくても、そのことだけで人の一生が評価されたり、あるいは毀損されるものではないんだと、うっすらとわかりはじめてきた。やりたいことは、もう自分をこの世にとどめておくための鎖にはならないのだ。

10代の頃から希死念慮の強いタイプで、死にたいという気持ちをいつも背中のあたりにぴたりと這わせて生きてきたけれど、そういう黒々しい怨念とは真逆の方向性で、今、いつ死んでも大丈夫と思っている。

突然こんなことを書くと「病んでる?」とか言われそうだな。ご期待に応えられなくて申し訳ないけど、全然病んでいない。ただ、そういう誤解も承知の上で、あえてこの文章を残しておこうと思ったのは、いつか自分が事故や病気でぱたっとこの世からいなくなったときに、変な悲しまれ方をすると嫌だな〜と思ったからだ。

「まだまだやりたいこともあっただろうに…」とか言われたら、「いやいや、全然そんなことねえっす」ってあの世から全力でかぶりを振りたい。悲しまないでほしいというのは、他者の感情をコントロールするみたいでエゴイスティックだけど、当人としてはそんな無念ってことはないですよ〜ということを、なるべく悲壮感なく周りに知っておいてほしい。

遺書とかエンディングノートとはまた違う、自分の死に対するお気持ち表明として、一旦このあたりで形に残しておこうと思って、このnoteを書いた(オタクみんなお気持ち表明大好きだから)。

今のところ健康だし(といっても、15年は健康診断にすら行ってない)、自分から区切りをつけるみたいなことをする気はさらさらないけれど、いつどうなるかはわからないので、そのときのための準備として。なので、もし何かあったときは、このnoteを覚えている誰かが引っ張りだしてほしいし、親しい人はこのnoteを読んで「そっか〜。お疲れっす!」くらいの軽やかさで、いくつかの僕との思い出を笑い話にしてほしい。

それくらい死は僕にとって身近なもので、でも悲しいことでも怖いことでもなくて。出番が終わった、くらいの感覚。じゃあ、ひと足さきに打ち上げ会場に行ってきま〜すみたいなノリで、そのときが来るのを待ちながら、僕は今日も生きている。

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横川良明
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