
お父さんはつらいよ
金曜日の深夜。いつものように残業で帰りの遅くなった宮田秀夫は、ダイニングで夕食をとっていた。すでに風呂もすませたらしい妻の初枝が、パジャマ姿のままコーヒーカップを持って向かい側の椅子に座った。
「遥香がね、いじめられてるみたいなの」
初枝の言葉に、秀夫は箸を持つ手をとめた。
「今日の夕方、思いつめたような顔をしてるから、わけをきいたら、泣きながら話してくれたんだけど、かなりひどいみたい」
秀夫は天井を見上げた。二階の遥香の部屋がある方向だ。
「かわいそうに。そんなにひどいのか」
「ええ、お金を取られたりってことはないみたいなんだけど、無視されたり、突然お腹を殴られたりするって」
「許せんな」
秀夫の言葉には、常になく強い怒りがにじみ出ていた。秀夫は箸を置いた。
「遥香を呼んでくれ」
初枝が娘を呼びに行く間、秀夫の脳裏には小さかったころの娘の姿が次々と浮かんだ。夜泣きに苦労した赤ん坊のころ、幼稚園の制服姿、お姫様の格好で駆け回ったディズニーランド、体より大きなランドセル、漢字ドリルや算数の宿題、中学生にだってこの間なったばかりじゃないか。そんな遥香がいじめられている。秀夫の心中は穏やかでなかった。
遥香がむすっとした表情のまま、秀夫の前に腰をおろした。
「お母さんに聞いたけど、学校でいじめられてるって?」
遥香は斜め下を向いたまま答えない。
遥香が十四歳になって、秀夫との関係は急に悪くなった。思春期の女の子に特有の、男親に対する嫌悪感がきざしたらしい。
「お父さんはきっと力になれる。ただの会社員だけど、理不尽なことや厳しいことならいろいろ経験してきたんだ」
最初のうちは頑なに口を閉じて、父親の質問に舌打ちすらする勢いだったが、母親に促されて、遥香はぽつりぽつりと話しはじめた。
秀夫の聞き取りは深夜に及んだ。嫌いな父親にさえすがるほど、毎日がよほどつらかったのだろう。遥香は誰にどんなことをされたか、誰がどんなことを言っているか、担任教師がどんな態度をとったか、スマホのメッセージまで秀夫に見せながら、詳細に語った。
「お父さんにチクったってばれると、またいじめられるかもしれない」
不安げな遥香に、秀夫は請け合った。
「大丈夫、そんなことにはならない。ベテランの会社員はうまく立ち回るもんだよ」
週末は平和に過ごした。遥香の秀夫に対する態度も、幾分和らいだようだ。
月曜日、遥香が悲しそうな顔で帰ってきた。
「あいつら、学校に置き勉してるノートがなくなったのは、あたしのせいだって」
「ひどいことされたの」
「だってノートがなくなったの、あたしをいじめてるやつらばかりだもん。あたしの嫌がらせにちがないって」
遥香は制服をまくって見せた。初枝はそれを見て息を呑んだ。ブラウスの下も太腿も、紫色のあざだらけになっていた。
それからの三週間というもの、遥香をいじめた人間のまわりに、信じがたいほど悲惨な出来事が続いた。
遥香をいじめていた主犯格で、執拗に罵詈雑言のメッセージを投げつけていた女子生徒が、塾帰りに大きなワゴン車にはねられて死んだ。ワゴン車は盗難車だったという。
遥香の腕や腹を殴り、太腿を蹴っては楽しんでいた男子生徒は、駅裏の路地で顔が変形するほど殴られて死んだ。脳挫傷だった。警察は不良の喧嘩沙汰によるものと発表した。
秀夫が子どもに注意してもらおうと、やんわりと電話したにもかかわらず、電話口で怒鳴り散らし、遥香をクソガキと罵った、いじめた生徒の父親が、朝の通勤電車に飛び込んで死んだ。もちろん自殺とされた。別の生徒の母親も、秀夫の問い合わせには取り合わなかったが、数日後風呂場で手首を切った。
ほかにも、遥香をひどくいじめていた男女の生徒が互いの手をひもでくくりあって、校舎の屋上から飛び降りた。ノートの切れ端に交際を反対されていたとの遺書が残っていた。そしてそれを苦にしたのか、遥香のいじめの訴えを鼻で笑い飛ばした担任教師が自宅で首を吊った。
その後、死んだ生徒たちのカバンから、遥香をいじめていた詳細なメモが見つかった。すべて本人たちのノートに本人の筆跡で書かれていたので、ひどすぎるいじめの内容を疑う者はいなかった。
「お父さん、いじめの話覚えてる?」
遥香の問いかけに、秀夫は答えた。
「もちろん。親への電話は無駄だったので、そろそろ教育委員会へ持ち込もうかと思っているんだ。学校にはそれが一番効く」
「もういいの。みんないなくなっちゃった」
「クラスメイトがたくさん亡くなったもんな。先生まで」
「みんな私をいじめてた人ばっかりだったんで、いじめのことはもういいんだ。お父さんの出番もなくなったね」
秀夫は、安心していいのか悲しんだ方がいいのか、複雑な表情をしている遥香に言った。
「みんないじめのメモを残してたんだろ。保護者や学校相手に、損害賠償請求をしてやってもいいぞ」
「そんなことしなくていいよ。みんな死んだのに。そもそもお父さん、なにもできなかったじゃん」
「そうだな」
秀夫は微笑んで遥香の肩をたたいた。遥香は嫌がらなかった。
いいなと思ったら応援しよう!
