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ねずみのそば屋
「あれ、こんなところに屋台って出てたっけ」
時刻は真夜中を過ぎたところ。毎日おそくまで仕事に追われて、今日も終電で帰ることになった健一は、人気のない夜道にポツンと出ているそば屋の屋台に目をとめた。
なにぶん郊外のニュータウンである。真夜中ともなると、駅から少し離れるだけで、人気のない暗い夜道が、田んぼや団地の間を縫うように続いているだけだ。
その屋台は、真っ暗な田んぼを背にして、ことさらさびしい夜道のかたわらにあった。
健一は、残業の合間にコンビニのおにぎりを二つ食べただけだったのを思い出すと、急にお腹がすいているのを感じた。
「ちょうどいいや。帰ってから何か作るのもおっくうだ。かけそばでも食っていこう」
健一は、そうつぶやいて屋台ののれんに頭を突っ込んだ。
「かけそばひとつお願いします」
「あいよ」
健一は声の方に顔を向けて腰を抜かしそうになった。
「ね、ねずみ!」
頭にタオルを巻いて、湯切りのざるを振るそば屋の親父は、どこからどう見てもねずみそのものだった。それもかなり大きい。柴犬くらいはあるだろうか。
「お客さん、うちの屋台ははじめてかい」
ねずみの親父は落ち着いた声で言った。声も口調も普通の中年男性なだけに、姿を見るとよけいに混乱する。
「え、いや、はい、で、なんでねずみが」
「そっか、はじめてか。ま、そんなこまけえこたいいじゃねえか」
細かくはないし、よくもない。
「へい、かけそばお待ち」
横からどんぶりが出てきて、健一の前に置かれた。
「カ、カピバラ!」
「そうだよ。いちいちびっくりしないでおくれよ」
カピバラはのんびりとした声を出した。
「ああ、うちは二人でやってんだ。そいつはでん助。洗い場と配膳とか、まあ手伝いだな」
健一は、わりばしを割ったはいいが、はしを持って固まっていた。
「衛生管理が気になるかい。うちはそこらの人間のそば屋よりよほど気をつかってるよ」
健一は、意を決したように、かけそばのどんぶりを持ち上げて、ひと口すすった。
「うまい!」
思わず声が出た。カツオと昆布が効いた出汁の香り、こしのあるそばも香り高く、のどごしも申し分なかった。二口三口と、息もつがずにかきこんだ。
半分ほど食べたところで、健一はどんぶりをいったん置いた。
「なんでこんなうまいそばをねずみがこんなところでそば屋の屋台を夜中なのにねずみが」
「ちょっとおちつけ、若いの」
親父の話によると、この屋台は子の年、子の月、子の日、子の刻とそろったときに、この場所にやってくるという。それこそ、人の姿などまったくない大昔から、野原の真ん中でそば屋をやってきたとか。
「それが、ニュータウンなんかできちまって、うちがあとから来たようなかっこうになっちまって」
ねずみの親父は腕を組んで鼻の先にしわを寄せた。
そこへ新しい客が来た。
「大将、てんぷらそば」
「た、たぬき!」
「だからいちいちびっくりすんなって。うちはもともとこういう店なんだから」
「お、人間たぁめずらしいね。あんちゃんも、なんか悩んでることがあんのかい」
「よけいなこと聞きなさんな」
「こりゃいけねえ、そんでよ大将」
たぬきは、器用にはしを使って天ぷらそばに舌つづみを打ちながら、反抗期の子だぬきの悩みをこぼしはじめた。
「だってよ、このクソジジイなんてぬかしやがんだよ、あのクソガキ」
「いっしょじゃねえか」
またのれんが動いた。こんどはさるだ。
「親父、たぬきそばくれ。お、たぬきだ。うわさをすればってやつか」
「そばといっしょにすんな、エテ公」
「あいかわらず口がわるいな」
さるは甘く炊いた薄揚げをかじりながら、健一に目をやった。
「こっちのお兄さんは人間じゃないの。なんかつれえことでもあったんか」
また聞かれた。
「なんでみなさん、ぼくに悩みごとがあるのかって聞くんですか。そりゃ仕事はきついっすけど」
「悩みがなきゃこんな店来ないよ。」
さるが言うとたぬきがうなずいた。
「悪かったなこんな店で」
「おれだって、かかあに逃げられてからは、さっぱりでよ」
さるははなをすすって、こぶしで目元をぬぐった。
店員のカピバラが健一に言った。
「ここはさあ、みんなに元気をだしてもらうそばを出すんだあ」
またのれんが開くと、今度はねこの親子が入ってきた。
「かけそば一杯ですが、よろしいでしょうか」
「おいまたややこしいのがきたぜこれ」たぬきが言った。
「兄ちゃん、とにかく席つめてやってくれ」
健一たちに向かってさるが言った。
屋台の前のベンチがいっぺんにいっぱいになった。
「はいよ、かけそばお待ち。もう一杯はサービスだ。ちくわ天もおまけだよ」
ねこの親子はえらく恐縮してカピバラからどんぶりを受け取った。
「いいってことよ。久しぶりの店びらき、出血大サービスってやつさ」
ねずみの親父は大いばりで言った。
客のあいだでは話がはずんで、そばをすする音と笑い声でえらくにぎやかになった。
健一はかけそばをおかわりして、出汁までぜんぶ平らげると席を立った。仕事の疲れや、明日の仕事の心配もすっかり消えて、なんとかなるさという元気が湧いてくるのを感じていた。これがこの屋台のありがたさなんだろうと、健一は不思議と納得した。
代金はお金じゃなければ何でもいいというので、ネクタイと社員証を首から外して差し出した。なんだかすっきりした。
健一が歩きだしてふと振り返ると、すでに屋台は消えていた。子の刻はとうに過ぎてしまったのだろう。
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