短編小説『E♭の夜想曲』Op.3
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8月10日
ついにこの日がやってきた。私は前日から緊張して上手く寝つけなかった。
何ヶ月もこの日のために練習してきたんだ。この10分間のために。
そうこうしていると、とうとう私たちの学校の番がやってきた。
エントリーナンバー12 ○○県立□□高等学校
私たちの10分間の戦いがスタートした。
無事に演奏を終えた。私たちはそれぞれ達成感や充足感を感じていた。中にはもう泣いている子もいた。
課題曲も自由曲もミスなく演奏できて本当によかった。木管楽器の中でも特にサックスの音色は大きくて目立つため、気が抜けないのだ。
そんな感じで余韻に浸っていた私は、大事な約束をすっかり忘れていたことに気づいた。
「そうだ、おっさんとの約束!」
楽器を片付けるため楽屋にいた私は、急いで客席へ飛び出した。
「ちょっと奏、どこに行くの!」
私を止めようとする皆の声が聞こえるが、今はそれどころではない。急いで向かわないと帰ってしまうかもしれない。
大慌てで客席の扉前に来た私は、一つ大きく深呼吸をして、そっと扉を開けた。
どこを探しても、おっさんの姿はなかった。
もう帰ってしまったのか。それともそもそも約束すら忘れてしまったのか。
これ以上探していると警備員に怒られそうだったので、私は静かに客席を後にした。
演奏が上手くいったことの達成感と、おっさんと会えなかったことのモヤモヤ感。色んな感情が合わさって複雑だった。
それから楽屋に戻り、急に飛び出した私を心配して皆が口々に声をかけてくれた。私は
「何でもないよ、ごめんね」
と笑顔で返事をしつつ、内心はうわの空だった。
しばらくして、結果発表の時間になった。
なんと私たちの高校は金賞を受賞し、見事県大会出場を果たしたのだ!
皆肩を合わせて泣きあい、互いの健闘を称えた。私も号泣しながら、先輩たちとこの結果を噛み締めていた。
「努力は実を結ぶとはよく言ったもんだ」
と誰かが言っていた気がする。
私は県大会出場の喜びと、さらに上の関東大会に進みたいという野心に燃えていた。
さっきまで必死に探していたおっさんのことも忘れて。
8月13日
大会から3日経った。大会直後、しかもお盆ということで、部活は休みになった。
だか私はいつもの河川敷に来ていた。
もうこれが習慣になっているというのもあるし、楽器は一日休むと三日休んだのと同等に技術が落ちる、と言われている。
県大会は9月2日。あまり日数はない。
だから私は、お盆休みにも関わらずここへ来ていた。
今日は夜ではなく夕方に来ているのだが、いつもの場所でも夕方というだけでずいぶん違って見える。
そんなところに電柱あったんだ、などと考えながら練習していると、息を切らしながら走るおばさんがこちらに近づいてきた。60代くらいだろうか。
ランニングでもしているのかと思ったら、その人は私に話しかけてきた。
「はぁ、はぁ... あの、あなた、ここにいつも来ていた私の息子のお知り合いの方ですよね?」
「え......?あの、いつも長袖長ズボンの?」
突然の出来事に驚きつつ、私は答えた。
「はいそうです!ごめんなさいね、突然驚かせてしまって...」
そのおばさんは、おっさんの母親だと名乗っていた。私に一体なんの用だろう?
「実は先日、息子が倒れたんです。あなたに会いたいと言うもんですから、私ここら辺を探し回ってて...」
言葉が出なかった。おっさんが倒れた?
まさか。あんなに元気だったじゃないか。
それからはおっさんの母親、美江子さんに連れられて近くの市立病院へと向かった。
道中、美江子さんの車内で、私は今起きていることが信じられず、嘘であってほしいとずっと心の中で唱えていた。
病院に到着し、とある一室に連れられた。個室だった。部屋の前に
「三谷 勇気 様」
という名札があった。
「失礼します...」
そっと病室に入ると、そこにはずいぶんと痩せ細ったおっさんがいた。
いつも夜しか会っていなかったから、初めて明るいところでおっさんの顔を見た。
いつもの冗談を飛ばす明るいおっさんの面影は、どこにもなかった。
「おっさん.........」
私はかける言葉がなかった。お見舞いに行った経験も、こんなに辛そうな病気の人を見た経験もなかった私は、こういうときに何と声をかけていいか分からなかった。
「ごめんな奏、大会に行けなくて...約束破っちまった...ゴッホゴホ」
「いいんだよ気にしなくて!無理に喋らなくていいよ」
正直泣きそうだった。知識のない私でも、おっさんはそう長くないということが伝わってきた。
「あのね、私県大会に出れたんだよ!」
「すごいじゃないか!おめでとう!」
「うん!9月2日にあるんだ!...関東大会に出れるように頑張るから!」
そういいながら私は泣いてしまった。本当は県大会に来てほしいと言いたかった。だが弱りゆくおっさんを目の前にしながら、そんな惨いことは言えなかった。
「おいおい、なんで奏が泣くんだよw」
おっさんはそういいながら私の手をそっとさすった。少し目が潤んでいるように見えた。
「ごめん、県大会出れた時のこと思い出して嬉し泣きしちゃったw」
そういいながら、私はおっさんの枕元でたくさん泣いた。
8月17日
その日を境に、私は練習終わりに毎日おっさんのお見舞いに行った。美江子さんも毎日看病に来ていたため、ずいぶん仲良くなった。お礼にとたまにケーキをいただいたりもした。
この日検査でおっさんが席を外していた時、美江子さんからおっさんの過去について聞かせてもらった。
おっさんは現在36歳。以前は小学校教諭だったそうだ。
小さい時から身体が弱く入院続きだったが、先生になりたいという夢を叶えるため、勉強を続けていたらしい。
その頑張りに応えるように、病気も完治。
晴れて小学校教諭という夢を掴み、忙しくも充実感のある楽しい日々を送っていたという。
しかし2年前、おっさんが34歳の時。
校庭で体育の授業中、おっさんは突然倒れてしまった。そのまま救急車で運ばれ、持病が再発したと判明。さらにガンも併発。そのまま小学校教諭を辞めることになった。
それから入院生活を続けていたが、おっさんの意向もあって今年の春からは自宅療養を行っていたそうだ。ずっと家にいるのも暇だからと言って、河川敷へ散歩に来ていたとのことだった。
もう先も長くないんだし残った人生楽しみたいと、倒れてから辞めていたお酒も飲み始め、吸ったことのないタバコも吸い始めたという。
「本当だったら止めないとダメなんだろうけど、あの子頑固だから。最後くらい好きにやらせてあげたくてね」
美江子さんはそう言うと笑っていた。
その笑い方はおっさんそっくりだった。
私はそれから少し美江子さんと談笑した後、病室を後にした。
勉強を教えるのが上手だったのは教師だったから、変にタバコでむせていたのは病気だったから。
私はおっさんのことをまったく知らなかったんだ。
おっさんのことを想って悲しくなる気持ちと共に、私の中にはある計画があった。
to be continued…
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