no title
結局、私は何が欲しくて泣いていたのか分からなくなった。
催眠よりもウトウトせず、魔法よりも現実的で、洗脳よりも自分に要因があるような、そんな何かにかかっていた。
愛は、常に自分自身がもっている状態が健康的である。
一度しっかり腑に落ちたはずだったのだが、すっかり忘れていた。
ついでにいうと、2020年の夏、大学3年生のはずだった夏のことが、断片的にしか思い出せなくなっていることに気づいた。
大学1,2年生の頃のエピソードは、何度も、今でも人に話すので、まだちゃんと覚えている。
いつか語らなくなるときが、忘れてしまうときが来るのだろうか。
私の記憶は脆い。
忘れてほしくないことがあれば、ちゃんと繋ぎ止めておいてほしい。あなたに。
話を戻そう。
感覚に正しいも間違いも無い、と思っている。
心も、身体も、時間も、夢も希望も、「渡した」と思えば渡したんだろうし、「与えた」と思えば与えたのだろう。
「自分が肌身離さずもっている」という感覚があれば、そうなのだろう。
危なかった。
私はあまりにも他人本位になってしまっていた。
同時に、自分のことばかり考えていた。
矛盾じゃない。これも、私の感覚を最適な言葉にすると、そうなので。
先日、電話越しに、私は子どものようにワンワン泣いてしまった。
子どものようにっていうか、私はまだ赤ちゃんなんだなあと先ほどスーパーで思ったばかりなので、何もおかしなことはしていないのだけど。
生きる意味とかいう沼テーマ、何回もはまっているのに
ホームドアの無いホームで、少し考えちゃった。
愛してほしいという欲があることを、初めてはっきりと自認した。
21歳にして、こんなことに気付くのかと
あー人生って面白いなってちょっと思う。(今だから思える)
心から、大切な人の幸せを考えるばかりに、愛の管理方法を誤っていた。ああ、いつからだろうな。
私は、愛を注ぐ、とか、あげる、とか
資産を渡さなくても運用できるのではないかと考えた。
愛の総量は増やしていけるものだと
愛という資産は私がもった状態。
ただそこに“ある”だけ。
時間や限りがあっても、身体が一つでも、大きな問題は生じない。
自分で、そう言っていたじゃないの
上質で、包み込むような
激しく燃えていないかもしれないけれど
灯り続けているような
泣きながら欲しい、と思っていた。
でも、やっぱり「渡す」とか「貰う」ものではないなあ。
そういう意味では、2年前や1年前と、私は何も変わっていない。はず。
太陽のように、赤血球のように
聖母のように、女神のように
私に触れて、安心してほしい。
あなたの原動力になりたい。
それはそれで、本当なんだけど
「愛してほしいってちゃんと言えばよかった」
って泣きながら私、言ってたよ。
感覚や解釈が、判断になる。
最高から最低まで、ものの数時間でジェットコースターのように変わった。
私が貸した『影響力の武器』を読んだ、間瀬くんという友人なら、
「コミットメントと一貫性の影響力だ」と言うだろう。想像できすぎて笑ってしまった。
またビジネスをかじった人なら、サンクコストと表現するような、そんなもの。
催眠は、魔法は、洗脳は、そうではないような、そのようなもの
は、いつか解ける。
私が欲しがっていたのは、結局何だったんだろう。
2020年6月19日に、非公開でブログを書いていた。
外出自粛を余儀なくされていたちょうど1年前が、正直一番心穏やかだったな。
そんな心身ともに健康な状態が、文章からも伝わってきた。
DADARAYの灯火を聴きながら書いたらしい。
(そう書いてあった)
今誰かに会いたいのは、さっきまで誰かに会っていた反動です。
明日生きるのに、楽しみはコメダのモーニングでじゅうぶん。
2021年6月7日
ありがとうございます♡