望まない現実を作っていた過去の話
「起きることはすべて自分が創り出している」
「自分の「意識」次第で起きる現実が変わる」
「思考は現実化する」
スピリチュアル・自己啓発界隈ではよく言われること。
でも、もし、好きな人とうまくいかない、突然別れることになった、仕事がうまくいかない、嫌なことが立て続けに起きた、ストレスしかない生活だ、家にいるのが苦痛・・・などの、苦しい状況、または理不尽だと思う状況で「あなた自身がその現実を作っているんだよ」と言われても、「ハァ?」となると思う。(というか、私は、なった)「こんなに苦しくて、這いつくばってて、精神的にギリギリな状態を、わざわざ?自分が?どうして?自分で作っているはずないじゃない?」と思うのは当然だと思う。
現実に起きない思考もいくらでもある。
だけど、結構、ぼんやり考えたことやふと思ったことは気づいたら実現していること、というのは起こっていることのようだ。
思考の癖。口癖。思い癖。
これがネガティブな方向に向かうと、きちんと、ネガティブな出来事を起こしてくれる。特に人間関係では顕著に。例えば恋人同士でどちらか一方が相手の浮気を疑い、「どこにいたの?何してたの?誰といたの?浮気していない?」を四六時中尋ねるのを続けていくと、その疑いはいずれ現実になる。それを愛情だと受け止める人もいるだろうけど、負担になっていくと、違う人との関係を始めたくなる、ということが簡単に起きてしまう。根底にある「自分は大切にされない」「自分はきちんとした人間関係を築けない」「いつも相手に浮気されて捨てられる」という信念、思考の癖がちゃんと現実になる。その根底にある考えというのに気付けるかどうかが、現実を変えていくための第一段階だと感じる。
私は悪運が強かった。小学生の時の席替えでは「◯◯の隣だけはいや。その人以外であれば誰でもいい」など、今思えば失礼なことを強く考えていたのだが、くじを引くと、その子の隣になっていた。新卒で入った会社でも、一番理不尽な部署へ配属。「私が願ったことは叶わない」と根底で信じていたから、第一志望の大学も、第一志望の会社も、落ちたのだと今振り返って思う。(そう信じていたことなんて、気づきもしなかった)
根底の根底の根底の根底・・・と探り始めたのが2011年の震災後。
スピリチュアルが嫌いだった私がスピリチュアルの扉を開けてから。
引き寄せの法則が流行っていた頃かもしれない。願いを書いた小さな紙を好きな箱に入れてレイキをかけると、引き寄せやすいと学び実践したが、なかなか叶わなかった。だって「私が願うことは叶わない」と私が信じていたから。叶うはずがない。(レイキとは、レイキヒーリングというヒーリングの一種で有名なもの。私が普段使うのはまた別のヒーリング方法)
生まれてからその時までに起きたことすべて、もともと生まれ持っていた「叶わないかも」のタネに水や養分を与えてきていたのだと思う。2歳の時に妹ができて、大人たちの注目がすべて可愛い赤ちゃんの妹に注がれ「私は選ばれないんだ」「私は幸せにはなれない」。7歳の時に引っ越しをして「好きな人たちとは離れる運命なんだ」「ずっと楽しいままではいられない」。10歳の時には「私は誰のためにもなっていない。親を怒らせるだけの人間だ。死んでしまいたい」「幸せに生きることはできない」。などなど、何度も何度も、「願いは叶わない」に水をあげて、花を咲かせて実をつけて。そしてそこに沢山の色をつけた。嫉妬、自己憐憫、社会批判、他者批判、過剰な自責、卑屈、天邪鬼、等々、願いを叶わせないように。
人はポジティブよりもネガティブな方に向かいやすいらしい。
震災という転換期から、仕事で、人間関係で、家の中で、人と関わったり起きることからひとつひとつ、「私の中にある信念はなんだろう?なぜこれが起きたんだろう?」と探るようになった。実までついた「願いが叶わない」「幸せになってはいけない」「不幸でいるのが安全だ」「自分には何かを人にもたらす価値はない」「もがいているのが人間だ」などの観念は、突き止めても変化させるのには時間がかかった。
「幸せになってはいけない」と心底信じ込んで、幸せじゃない状況に浸って、文句を言うだけで脱する努力も気づこうともしないで、「やっぱり、私は幸せになれないんだ」と堂々巡りをして。どうしたら180度真逆の「私は幸せでいいんだよー!」と心底信じていけるようになるのか。
ここから、「感覚」を変えていった。
それまでもいつも不安・心配・怒り・疑いを抱えていた。一度不安じゃない感覚を作ると、その新しい感覚でいることにムズムズした。「え、不安じゃない状態って、逆に心許ない」と。だから、不安じゃない感覚を作り「これでいいんだよ」と自分の頭が体に言い聞かせるようにしてみた。何度も、何度も、何度も、していった。朝起きたら、不安。「今日は何時にあれをしてそのあとああしてあれをしたら、、沢山だな、大変だ、間に合うかな」から始まり、電車間に合うかな、ここで事故起きたりしないかな、あの人はちゃんと来てくれるかな、あの人から連絡がそういえば来てないな、というのを、考えた瞬間に「あ、また心配した。もうやめよ。おわり」と意識を違うところへ向けた。
小さな時に植えた不幸のタネから花を咲かせて実をつけたように、ここからは、幸せのタネから芽を出させ、いずれ実にしてみよう、と、小さなことからコツコツと変化を心がけた。何度も泣いたし、何度も狂っているように感じたし、それでも「幸せな心地であることを信じ続ける人」でいることを諦めなかった。
だから私はよくお客さまに言う。Instagramでも言葉を放つ。
「大丈夫」「絶対大丈夫」「絶対叶えていける」と。
というのは、私自身がやってきたことだから、それを知っている私が、もっともっと私がやってきたよりも早く、簡単に、そして私のやり方ではなくその人らしく、楽しみながら叶えていけるようにできると信じているから。
(かといって、すべてが私というのではないので、他のやり方もあるし、私のいうことを否定されたとしても、自分が否定されたように思うことももうない)
皆それぞれが、それぞれのやり方で、ペースで、やりたいように、やっていられて、それを俯瞰してみた時に Perfection ができているのだと、今、心から信じている。私は過去の感覚は苦しいものが多かったけれど、今は、苦しいことがなければよかったことではなくて、心から愛おしいもので、あってよかったことと感じている。その、制限を知ってから制限から解放される感覚が、好きで、これが人間の醍醐味だと思う。
誰かが目の前で、傷つくことがあったとしても、「傷つくことはだめ。悪いこと。良くないこと」とせずに、まずは「傷つきたいタイミングなんだろうな」と肯定してから、「さて、ここから、どうしよう?」という問いかけから始める。変化だってしなくても良いし、しても良い。変化がいつも素晴らしいものとは限らない。今、どんな状態であってももう既に完璧なのだと思う。今はね。渦中にいるとしんどくてそんなこと心から思えないのだけど。でも、そこから抜けるといつも「やっぱり完璧なんだな」と立ち返る。
いつも、優しい世界を未来に見続けている。