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居心地のいい在り方とは

すべてを肯定している感覚で在ること。

ハートが開いている状態でいること。

何か特別ウキウキ・ワクワク・ドキドキしたりしている必要はないけれど、
不安や心配などは感じずに、ニュートラルで満たされた心地でいること。

嫌なことや困ることが起きない訳ではない。
けれど、起きてもサクッと気づきを得て「はい、終わり」としていくまでが早く、「悩み」となる前に終わらせるスピードを作れること。

心配しない訳ではない。不安が全くないはずがない。
けれど、その考えに頭の中を支配させずに「起きたら起きたで対処すれば良い。その力が今の自分にはある」と自身を信頼する力を持てること。

人間は、意志の力を使わずにいると、すぐにネガティブな方向へ向かう。
勝手に頭の中には心配、不安、怒り、ネガティブな期待、後悔、そのような考えが膨らんだり連想ゲームのように走っていく。そういう習性がある。
それは、その感情や思考を楽しみたいから。
人間でないなら、その感情は味わえない。
虫や動物や植物は、過去の後悔も未来の不安も、吐き出さない。

だから、意志の力・意識の力で、切り替える。

不安だよ、不安。そりゃ、心配になるよ。
全く心配を抱かないなんて、無理だよ。
だけど、だから、自分を守れるんだ。
守るために、怒りも不安も悲しみも抱けるようになっている。

どんな感情も否定をしない、排除をしない。在ることを認めて受け入れる。

まずは、怒りを抱いた自分を「そうだよね、それだけのことを、されたよね」と認める。「私が怒りを感じるなんて、怒りをあらわにするなんて、許さない。そんな人間じゃない、私は」なんてことをするのは、もったいない。というか、そんなに、聖人じゃないよ、人間って。良いんだよ、怒って。泣いて。叫んで、良いよ。抑圧しないであげて。

認めただけで、意外と、落ち着くんだよね。
感情が沸いた瞬間に否定をすると、野放しにされたようで解放はされない。
無意識に、雰囲気に出る。「なんか怒ってる?」と思われちゃうだけ。

認めて、受け入れて、認めて、「在る」ってしっかり感じて。
そしたら終わるから。

手放すというのは、まず「あっても良い」と心から思えていること。

捨てることじゃないよ。排除することじゃないよ。見ないふりじゃないの。

しっかり真正面から見つめるから、「うん、わかった」って終わりになる。

それを、ずっと、続けていくだけ。感じる。味わう。知る。終わる。
繰り返し。

そうすると、心がどんどん軽くなる。解放された心地になる。

その感情が解放された隙間、新しいものをいれるスペースになる。

そこからやっと「何がしたいかな〜」が出てくる。

感じ切って終わらせた感情が出ていくから、内側からちゃんと
「これしたい!!」「今、これ、したい!!」が出てきてくれる。

終わらせたい感情を持ったままにしていると、ただひたすら
「休みたい。終わらせたい。あーイライラする。疲れた。きつい」
と、終わらせるための感情の揺れが起こる。
だから、休み、内側に向かい、感情を整理し、終わらせていく。

何かをするから、幸せになるのでもなく、幸せを掴めるのでもなく、幸せが降ってくるのでもなく、幸せをもらうのでもない。

内側から出てくる、満たされた心地、軽やかな心地、さわやかな心地、ニュートラルな心地、で在ること、というのが幸せな状態。形じゃない。
それを自ら作ること。誰かが作ってくれるものじゃない。
自分の力でしか、それは、作れない。

浄化・解放と幸福・豊かさの繋がりはそういうこと。

何かを成し遂げたから、何かを持っているから、誰かといるから、こんな風に周りから見られているから、その立場に立っているから、幸せ、じゃない。

既にもう幸せな心地で、居心地いい在り方でいて、だから、豊かさを巡らせていける。人に優しくできる。やりたいことをやると自分に許していける。

それだけ。

今この瞬間が、頭で考えてどうしても完璧と思えなくても
本当はもうこの瞬間は、すべてが完璧なんだ。すべて、仕組んでいた通り。
魂が求めていた通り。頭とは違うからね。
その揺れ動いている心、うまく動かない体、勝手に走っていく頭、それが、計画通りに知りたかった状態。パーフェクトな状態。
そう思うことをしてみた時から動き出す、未来への歯車。

すべてを肯定している状態。頭と心と体、合致させて。

ハートが開く。愛おしい気持ちになる。ありがたい気持ちになる。

居心地いい感覚をつくる。

その感覚で、いろんなことをしてみる。

いいこと、いっぱい、起きるよ。

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