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「たりない」

「幸せ」とは、「大切な人に降りかかった雨に傘をさせることだ」と、back numberは教えてくれた。
しかも曲の冒頭も冒頭に!こんな答え言っちゃって、この後なにを歌うの?と衝撃だった。back number好きだったなあ、懐かしい。
これは、たまに深夜に考えて辛くなり、泣きじゃくって寝られなくなる、そういった、私の中でも永遠の問いの1つだった。


では、人間的に「たりている」とは、何か
逆に人間的に「たりない」とは、どういうことなのか。

正直、私はこれまでの人生、この問いに対して考え、深夜泣いて寝られなくなるなんてことは一度もなかった。人間的に「たりている」のか「たりていない」のかなんて、どうして考えるんだろうか。みんな同じ人間なんだからそこに「たりる」も「たりない」もないと思う。そもそも、人を「たりている」「たりていない」の指標で測ったことがなかったから、私の頭のどこを探しても、当時"人間的にたりない"なんて、そんな言葉はなかった。


数年前、仕事の先輩に教えられて観たテレビ番組に、私が初めて触れる概念である「人間的にたりない」という言葉を使って、熱く持論を語っている人たちがいた。


山里亮太さんと若林正恭さんによるユニット
「たりないふたり」

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それまで私はネタ番組やバラエティ番組でしかお2人のことを見たことがなく、それぞれの人間性や性格は知らなかったから、序盤に「俺たちって人間的にたりないじゃん?」という共通認識から会話が始まったところで、私はまず、「そうなのか」と認識を合わせていくことから始めた。

へえ、この2人って人間的にどこか「たりない」んだ。
どんなところがそうなんだろう…?

そう思って番組を見ていたら、ある事に気がついた。

あれ、私って人間的に「たりない」の?


飲み会で出される嫌な話の切り上げ方
2次会をバックれる方法
うまくリアクションができない場での切り抜け方
拗らせた恋愛観 etc…

共感しかない。
さっきから「わかるー!」しか言ってない。
なんならわかりすぎて見るのが恥ずかしい。
次々に出てくる「あるある」に笑ってしかいない。
2人の実践テクニックを聞いて、今度私もやってみようって思っている。

そう、私も、2人が言うところの人間的に「たりない」人だったのだ

正直、”人間的にたりない”という言葉の用法が私の辞書に掲載されていなかったためにそう表現してこなかっただけで、同じような悩みに直面し「私ってダメだなあ」と落ち込んで泣いて眠れない夜はたくさん過ごしてきた。

ただ少し違ったのは、私の場合「たりている」側の人間っぽく見せることをかなり得意としていたことだ。
友達の親に「ほんとにしっかりしてるね」って言われるタイプ。外面は良いけど、実際全然そんなことはなく、家ではダラけて親に怒られて、ひどい有様。つまり、最低。

わかってはいる。
なんなら、ダメだってことがわかっているからこそ、それが外ではバレないようにと繕って、外面は「たりている」人になっていた。
そんなにバレたくないなら家でもずっと良くしとけば、内面も全部ちゃんとしている人になれたのにね。そんな変な持論で塗り固めて正当化して「私はこれでいいんだ」って思い込んでも、結局、後々世間とのギャップを感じて、20代中盤でそれを埋める作業をしていかなきゃならなくなるのにね。
でも、それができるほど、私の心は強くなかった。
直せるところはちょっとずつ直していけたけれど、結局今になっても基本の怠惰な部分は全然変わっていない。


「明日のたりないふたり」

そんなことを改めて気付かせてくれた「たりないふたり」が、2021年5月31日の配信ライブ「明日のたりないふたり」を以って解散するらしい。

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私がCreepy Nutsを好きになったことで、Creepy Nuts側からの「たりないふたり」への想いに触れる機会も増え、当初番組を見た時よりは、お2人の人間性や、ユニットについての認識を深められていた。そんな「たりないふたり」の最後のライブ。これは、リアルタイムで見るしかない。ということで迷わずHuluでチケットを購入した。

5月31日、配信当日。私は在宅勤務を18:30で一旦切り上げた。残りの仕事を後でやることにして、配信の時間はライブを見るのに集中することにした。

ただ、結局、その日はもう仕事に戻ることができなかった。


配信を見終わった後の私は、仕事なんてできる状態ではなかった。
そのくらい、放心してしまって、他のことは何も考えられなくなっていた。


最初は、きっとこれまで通り、いわゆるネガティブなワードである「たりない」ということについて、ポジティブな感情の多いお笑いに落とし込んで消化してくれて、これまでの集大成みたいなものになるのかな、みたいなことを勝手に予想していた。

序盤は、どちらかというと想定していた方向で漫才が進んでいった。想定していたという言葉はあまりに失礼なのだけれど、ざっくりと方向性としては「たりないふたりといえばこれだよね!」というようなもので、少し安心感もあって、純粋に新作のお笑いを楽しんでいた。

しかし、中盤以降、特に「汚いヘリコプター」のくだり。
「たりないふたり」を始めたことで、自分たちが思っている以上の反応をもらえたこと。当時今ほど有名ではなかったCreepy Nutsの2人が影響を受け曲を制作して、それがきっかけで武道館のワンマンライブを行うほどのアーティストにまで成長したこと。そのCreepy Nutsの姿を見て、まだくすぶっている他の「たりないふたり」にきっと希望を与えているだろうこと。
始めた当時は想像していなかったけれど「明日のたりないふたり」に対して、こんないい影響を与えることができたなんて、、というようなことを、言葉にしていた。

私は、Creepy Nutsがどれだけ「たりないふたり」に影響を受けたのかということを何度も聞いてきたから、「Creepy Nutsが影響を受けてくれた」ことに言及したところから涙が止まらなかった。Creepy Nutsの気持ちを考えると、どんなに嬉しいだろうか。
自分たちの心の支えとして、また道しるべとしてきた大好きな先輩方に、当時本人に届くとは思ってもいなかった状況で、インスパイアされて出した曲がお2人の耳に入って、その曲を不毛な議論でも流してくれて、連絡を交換し4人でご飯も行けて。
これがきっかけで、「犬も食わない」の同名テーマソングを作ったり、オードリーANNのテーマソングとして「よふかしのうた」を作ったりする機会もでき、さらには公演にむけて「たりないふたり さよならver」も書き下ろすこともできて。
むしろCreepy Nutsから「こんなにも素敵な機会を与えてくれて」と言いたいくらいだろうに、逆に「ありがとう」と言われるなんて。

こんなに嬉しいことがあるだろうか。
解散ライブで自分たちのことに言及してくれるなんて、初めて「たりないふたり」を見た時にはきっと考えていなかっただろう。
そう考えたら、私もCreepy Nutsの気持ちになって、号泣していた。

きっと、Creepy Nutsのライブを見て、泣いてるんだろうな。


と思っていたら、最後の最後、
これまで幾度となく聞いてきた曲のイントロが流れてきた。

2人が出てきた。
やっぱり泣いている。

あんなに武道館公演で泣くのを我慢していた松永さんが、我慢できず明らかに泣いている。武道館公演をはるかに超える人数が視聴している配信で。もはや武道館で泣くの我慢したのはなんだったんだろうっていうくらい。

それを見て号泣する私。

ほんとに、DJでよかったよね松永さん。一言も喋られないくらいに泣いてるもの。Rさんは歌うから泣いていられないだろうに。

と思っていたら、
Rさんが歌えなくなった。
初めて見た。
あの、Rさんが。一言一句外さない、Mステで少し歌詞を間違えたことでもかなり珍しいと言われていたRさんが、歌えなくなっていた。

それを見て、さらに号泣する私。


Creepy Nutsに向けて「頼んだよ」と伝えた若林さんの言葉を最後に配信が終了してからは、もう放心状態だった。
見ながら泣いた漫才は初めてではないだろうか。文脈がすごすぎる。


あれは漫才なのだろうか?

ちょっと話は逸れるが、今私の中で、前回のM-1グランプリで盛り上がったような、この疑問が沸き上がった。
後日山里さんがラジオで言及していたように、今回のライブは、この世の中のこのタイミングでしかできなかったものだった。観客がいないことを良いことに客席も使っていたし、終盤には整然と並べられていた客席のパイプ椅子をなぎ倒していた。一応舞台上にはセンターマイクが1本あって、セットはない。これまで見てきたものを考えても、どちらかというと漫才なのか。

色々と考えたが、これは漫才でもコントでもなく、はたまたお笑いという広義の言葉でも表せないのではないかと思った。というより、今回の2時間のライブだけを言及していては足りない。全てのライブ、また、ライブとライブの間にあったSNSでのやり取り、私生活の変化、ラジオでの発言や局を跨いだやりとりなど、その12年間に行われたこと全てが「たりないふたり」という名のドキュメンタリーであり、解散ライブとなった「明日のたりないふたり」は、その最後2時間を飾るエンターテインメントである。
そう捉えるのが、一番しっくりきたから、そういうことにしよう。


「たりない」ふたり

本当にすごいものを目の当たりにした。
新旧の「たりないふたり」、そしてこの2組から新たに影響を受けた「明日のたりないふたり」による壮大なドキュメンタリーはきっとこの後も続いていくだろう。


いや、ちょっと素敵すぎないか?
これだけのものを見せておいて、
果たして、本当に彼らは人間的に「たりない」と言えるのか?
他人の人生にこんなに影響を与えておいて、
その上でまだ、自分たちを卑下するのか。


ここからは私の持論になるが、人間は、構成する要素の総量自体は皆同じで、人によってその要素の配分が違っているのではないかと思うのだ。
何かが突出して良い人は、きっと何か別のものがその分欠落している。もしかしたら要素全部が平均的な配分で、自分には没個性だと悩んでいる人もいるかもしれない。
人間としての総量が多い人なんていないのだ、と私は思う。
どこかが「たりている」ように見える人も、きっと他のどこかが「たりていない」し、逆に、どこかが「たりていない」と嘆いている人にも、本人が気が付いていないだけで、他のどこかが「たりている」。

つまり、人間的に完璧に「たりている」人なんておらず、人間全員が、みんなどこか「たりない」のだ。


山里さんと若林さんはその「たりない」部分が、特に対人など、他人の目に触れやすいところで現れていたために、第三者から見ても「たりない」部分がわかりやすかっただけだと思う。

ただ、明らかに違ったのは、その「たりない」部分をさらけ出して、エンターテインメント化したということだ。

人間はみんな「たりない」。
しかし、その「たりない」部分を、私のようにひた隠しにして生きている人が大多数となると、もしかすると「たりない」のは自分だけなのではないかと考えるようになってしまう。

しかし2人は、お笑い芸人という肩書きやその突出した能力を最大限に生かせる表現方法を駆使して、自分たちがどのように「たりない」のかを多くの人に示してくれた。

もし2人の「たりない」部分が、人の目に触れづらいものだったら、このように表現しようとはならなかったと思う。第三者でもわかりやすい部分での「たりない」2人だったからこそ、エンターテインメントとして消化してくれて、そのおかげで、Creepy Nutsをはじめとして、私に至るまで、多くの人に勇気と希望を与えてくれた。

別に私はどこの宗教を信じているわけでもないが、もし神様が一人一人の人間を作ってくれているのだとしたら、2人をこのような「たりない」人間として作り、この世の中に送り出してくれたことに感謝したい。


ああ、たりなくてよかった。