#1 狩猟民族の子どもたち
「プリミティブな教育」というシリーズとして、太古の教育のことや自然とともにある教育について、調べ、感じたことを綴っています。
今までの教育の活動から、大事なものは引き継がれていくように。また、子どもたちも、子どもと一緒に過ごす大人も、生活・時間・人間関係などの面で無理がない形(継続)ができるようにと願って集めたことです。
プリミティブ/プリミティブな教育ってなに?
プリミティブとは、原始的、日本でいう縄文時代などの太古の時代のことを表しています。
また、神がかった、神聖な、祈りに通じる、といった意味も含まれています。
原始的と言われる時代、自然には神(カムイ)が宿り、自然の力を借りて生きてきたと言われることがあります。
そうしたことを踏まえれば、原始的という意味も祈りに通じる、同時代の同質のものであろうと感じられます。
では、プリミティブな教育(幼児教育)というとき、私は何について伝えたいか?
狩猟民族時代の教育や、子どもの神性を大切にした教育、自然とともにある教育です。
誰かが他の人を育てる、その根源的な理由、意味がここにあるのではないかと思ったのです。
学校というかたちは、幼稚園も含めて、いずれ変わっていくと思います。
そのとき、大事なものは引き継がれていくように。また、子どもたちも、子どもたちと一緒に過ごす大人も、生活・時間・人間関係などの面で無理がない形(継続)ができるようにと願って、調べ、伝えることにしました。
ピーター・グレイの本。『遊びが学びに欠かせないわけ』を頼りに
今日は、『遊びが学びに欠かせないわけ』という1冊の本を頼りにまとめていきます。
この本の主に前半には、狩猟民族時代の教育について書かれています。そして、狩猟から農耕へと生活のスタイルが変化したとき、
「平等」「共有」「自由」
といった価値観ががらっと変わった。
自分のもの、自分の領域という「所有」の概念が生まれ、「平等」「共有」というのは、自然にだれでも出来ることではなく、<義務>として「こころがけなければいけないこと」になりました。
こうした、「所有」や義務という概念のない、狩猟民族の子どもたちがどのように遊び、学んでいたのか。教育はどんな形であったのでしょうか?
教育は「文化の伝承」
狩猟民族にとっての教育とは、どいういうものだったのでしょうか?
本の中では、「文化の伝承」として定義され、それは今の教育にも通じているものです。
生きていくために必要な知恵・技・情報(知識)、そうしたものを若い世代に渡し、文化と生命を絶やさないようにすることが目的です。
狩猟民族の子どもたちの遊びはどんなもの?
子どもたちは大人のマネをして、狩りや調理などの必要な技を自分に染み込ませていく。
また、一緒に遊ぶときには、遊びを通して仲間同士の結束を高める。
どちらも、大人になれば仕事として取り組むことです。
まさに、遊びこそが教育=文化の伝承でした。
例えば、コインのような形の石を高く投げ飛ばす遊びは、誰かと競うために高く投げるのではありません。
自分のベストを尽くし、高く投げられたという行為自体を楽しみます。そこでは、他の誰かはここまでできるとか、あの人よりも上手にやる、ということには意識は向きません。
自分にできるベストを尽くすだけ。他の誰かは関係ないと、自分自身にフォーカスしていたことがわかります。
現代の大人であれば、つい「じゃあ、だれが一番高く投げられるか競争しよう」と言いたくなりそうなものですが、そうした競うという気持ちは、狩猟民族の遊びには無かったそうです。
私達は、知らないうちに、競争=誰にとっても楽しいものと自分に刷り込んでいたのかもしれません(競争については、別の機会に書きたいと思います)。
また、遊びに参加するかしないかも子どもたちに選ぶ権利があります。楽しそうであれば一緒に遊ぶ。フェアでない行為をする者がいれば、「私はそこには加わらない」とその場を離れる。
自然と、誰かと一緒に楽しむためにはどうすればいいか?ということを思考することになります。
遊びと社会に一本の筋が通って、遊びに対する理解がうまれる
狩猟民族の大人たちは、子どもたちがある一定の年齢になるまでは、労働に従事せず遊びに専念することを容認していました。これは、アメリカのアーミッシュの社会にも残っているそうです。
「遊びが子どもの仕事」だからと遊ぶことを応援してくれる人がいます。一方で、そうは言っても、、と、心からそうだよなと思えないのも事実だと思います。
私たちのイメージする子どもの遊びと、社会とのつなぎ目が見えないことがその理由ではないでしょうか?
「遊びは子どもの学びに必要なんだ」ということは、遊びそのものの質があり、その質が社会でも求められることだと認識されて、はじめて理解されるのだと思います。
将来、何が必要とされるのか?
生きていく上で何が必要になるか?
ということは、その次代によって変化していくものですが、その軸が定まらない状態で、子どもに何を経験させるかも揺れ動いている。
今はそういう時期にあることを感じます。(もう少し時代が進めば、<多様な生き方>ということでの調和がうまれてくるように思います)。
今までの主流の流れでは、知識・情報が必要。それを得たものが、いい環境の中で学ぶことができる、という価値観でした。それを前提とすれば、自然の中でただ駆け回るようや遊びは悪だとされるでしょう。
一方で、自然の中で仲間をつくり、答えのない自分らしいものを生み出すことが、生きていくために必要だと考える人は、自然や仲間たちと駆け回ることを賞賛し、知識はその中で、必要とされるタイミングで、獲得していくのがいいと感じるでしょう。
自分に必要なものをカスタムしていく学び
これらの学びのスタイルの、そのどちらが良い悪いということではなく、どんな生き方を選ぶかを子どもたち自身で選ぶことができ、それを大人がサポートするということで一本の軸を通してみるということが出来ないでしょうか。
自分がどこまでも中心、カスタマイズしていくという感覚です。(自分にフォーカス)
また、どの分野が良いとか、一番はこれだ、ということをクリアにして、すべての知恵は平等であると一旦扱ってみる。
「自由」「平等」の狩猟民族の価値観で学びを一旦見てみるということです。
では「共有」は?
「自由」「平等」を軸に学びを進めていくと、それぞれの出来ることが際立ってくる。そのとき、同時に出来ないことも同時に際立ってくるでしょう。
それをシェア「共有」して補っていく。それが、人とのつながりを生むという形です。
最後は子どもを信頼すること、大人が覚悟して自由になること
とはいっても、小さな子どもにそれを選ぶことができるのか?という疑問が湧いてきそうですが、自分自身の子どもを見ている感覚としては、選ぶことは可能です。
その合図がどんなに小さなものでも、やってみたいか、やりたくないか、という意思表示を子どもたちは本当によくしています。
絵の具や廃材で遊ぶのが好きなのか、海や山と戯れる遊びが好きなのか、いろいろな場所に連れて行くとその表情や遊びにのめり込む様子で、とってもよく分かるものです。
大人が勇気をもって、自分や世間が「いい」というものを、この子には「必要ない」とか「今は必要ない」と選択できるかどうか。
その小さな意思表示を尊重してあげられるかどうか。それがとっても大切です。
同時に、大人のみなさん自身も、この自分の中の意思表示を是非聴いてあげてほしいです。
自分に禁止していることは、相手に思う存分させてあげることが難しいですよね。
それでも、「これは経験して欲しい」と感じたことがあれば、子どもにどうして大切かを伝えて、それに子どもが同意したうえでやる、という形がいいのではないかと思います。
その時は、結果として「やりたくない」と思っても、時が経つと「やってみようかな」という気持ちになったり、必要かもと思うタイミングが来るものです。(これは、大人にも言えるのですが、レディネスという考え方です)
あくまで、平等に対等に。
■参考文献
ピーター・グレイ 吉田新一郎 訳 『遊びな学びに欠かせないわけ』」(2018 築地書館)
池田 智『アーミッシュの人々』(2009 二玄社)