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自分が幸せになる「相手への合わせ方」

私は少し長めの期間、コミュニケーションをサボっていたように感じています。

もう少し若い頃(20代くらいの頃)、人とどのように関わることが関係を深めることになるのか?どうしたら表面的にではなく、信頼関係を構築することにつながるのか?少し付き合いにくいとおもう相手とは、どのようにコミュニケーションを取るといいのか?

そのようなことを、日々思考して、試行錯誤もしていました。

すごくシンプルなものでは、名前を呼ぶこと、自分から好きになること(自分が苦手だと思うより、自分が相手を好きになったほうが、十中八九、相手も自分を信じてくれる)。

そんな風に、意識的に行動していたものもありますが、無意識に相手のニーズを汲み取って、自分の振る舞いを相手によってチューニングすることもしてきたと思います。

そんなふうに、他者の視点に立って自分を変えてみる、相手から見た自分を演じるということは、表現力や人間関係を構築する力のもとになり、そしてユーモアにつながるということを、先日、あるかたのお話から伺いました。

ですが、そうして自分を様々に演じ分けることや、相手の望む自分になるということは、少しネガティブに捉えられることもありますね。

私自身も20代の頃は(もしかしたら、もっと前から)「本当の自分の願いが分からない」ということになり、自分の好きな食べ物が分からなかったり、自分の意見が何なのかよくわからない時期を過ごしていました。

では、自分にとって心地よいチューニングと、自分を苦しめるチューニングはどうちがうのか?そんな疑問が浮かびました。

その違いの1つは、自分自身が「演じているんだ」という自覚かもしれません。

そのとき、演じながらも、少し自分を客観視する、メタ認知するという行為を同時に行っているように思います。

また、自分から意図的に、主体的にその振る舞いを行っていくという意識も存在するでしょう。

そのときそこにある動機は、<相手への恐れ>や、<相手に気に入られたいから>ではなく、「自分が何かを動かしたい」「何か成し遂げたいことがあるから」という主体的な動機であるはずです。

そのような意図・意識の流れの中で、自分を少し変えてみる、ということは、決して辛い作業ではなく、きっと、ちょっと勇気を出して表現力を磨く行為なのかもしれません。

もしその時、うまくいかないこと(例えば、相手に自分の言葉や提案を受け入れてもらえなかったとか)があったとしても、少しがっかりはするでしょうけれど、さほど傷つかない結果になるように思います。(私自身の経験もこちらに残してあります)

次の記事で、他者を発見した(自我が芽生えた)子どもたちが、何かを乗り越えて、表現力を磨き続けていく、そんなことについて、考え、文章にしてみたいと思います。

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Hiromi T
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