春木という人

 どうしようもない、やるせなさ。春木はグラスのコップを持ち上げて、口の前に近づける。2、3度その動作を繰り返したのちに、コップをテーブルの上に置き直す。
「もうこんな時間か?」
独り言である。カフェの一室で、今踊るための人々が出てこようとしている。1日に1回決まった時間に踊るための人々はやってくる。そのための準備はもうそろそろ終わろいとしているはずだ。今日の出来事を思い出す。春木は図書館に行って本を読む。図書館へは歩いて30分の距離にある。疲れてなどいない。だが、思った以上にその本は難解だった。春木にとって、とても異質で、新しい出来事に満ちている本だったのだ。そこまで考えて集中力が切れる。1人考える日々は決して長い時間を春木に与えてくれない。どんどんと本の内容が頭の中に浮かんでいく。だが、その本たちは今日読んだ本の中身ではなく、ずっと前に読んだ本のことだ。サルが三つの冒険をする話だったろうか。サルは結局、花嫁を手に入れて、子供を作ったという話だったろうか?結局生存そのものの意味を問い直し続ける本だったろうか?春木は足を組み直して、こめかみに手を当てる。ホールを歩き回るスタッフのスピードが、若干速くなってきた。間もなく踊るための人々が入ってくる。春木は目を閉じた。そのまま、大きな音が流れ始めて、ラテン風のヴァイオリン曲が次々と流れ始める。そして、多くの人々が華やかな衣装をまとって出てくる。それを春木は見ない。ずっと目を閉じている。多くの人々は力の限り踊って、それはラスベガスのショーくらいの熱気につつまれていただろう。当代随一の名シーンだった。周りの観客は涙ぐみながら、拍手を送っている。春木は踊る人々がさった後に十分な時間が経ってから、目をあけた。そこには、いつもと変わらないカフェがあった。「あれは、夢や幻だったんじゃないか?」と春木はまた独り言。そこにあった感触や熱気は間違いなく本物だったが、春木はそれを見ていない。踊る人々たちの踊りを見ていないのだ。やや、巨大な音楽が流れ出している。いわゆる巨匠の音楽だ。伝統的で洗練された新しさを持った音に彼は心を落ち着ける。本の内容がまた思い出される。昨日の本はとても変わっていた。電子工学と音楽の関係性について論じた本だった。著者は西の国の有名な物理学者だった。

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