ワタシはどこにいますか?
自分を知るということは、過去の自分も知るということなのだろうか?時間軸にそって、方向性を考えてみると、自分の文章や日記で、その時は思ったことが、いかに3日坊主や、その場の思いつきで、数日または数週間過ぎると消えてしまう。
そんな夏のセミのようなわたしの人生の方向性は、大きくも小さくも進みつつある。
方向性そのものは、まったくぼんやりとした蜃気楼のようではある。その蜃気楼の町は、豪華ではないが、とても実用的な(わたしにとってとても実用的な)町であるらしい。一人の料理人がいて、わたしのためにオムライスを作ってくれる。そして、ひとりの家事手伝いの老人がいて、とてもゆっくりと、やるべきことをやってくれる。
そんな整いました!という生活をどこまでも続けていく私という刺激反応性の人物は、どこにいる?
いつも、探してるけど見つからないんです。夢の中でも、霧の中でも、見つけるのは簡単ではない。
わかっていますとも。大いにわかっていますとも。ただ、この力がとても弱々しくなりつつあるのを感じるとともに。私は、こうも感じている。
この力は質的にとても純化されている。生きるという目的にそって、素直に流れていって、あるべき湖にたまって集まって強まっている。それでいて、何か奇妙な終わりを予感させるのだ。あまりにも、悲しみに満ちた、この終わりというものをにこやかなものに変化させるように私は、あなたに問い続ける。
ワタシはどこにいますか?