深遠なことを言おうとしたら、「おさゆき」みたいになってしまいました。
眼科の検査はいつも口頭でどう見えるか答えるので非効率的だし不確かだなあと思っていた。だが、どう見えているかは本人にしかわからないからそうするしかないのだと気づいた。本人の脳波を計測しても「どう」見えているかは本人が口頭で答える以上に正確には言語化できないだろう。本人の頭の中に潜入してどう見えているかを第三者が見る、などということはできないのだから。もちろん、眼科医が診て光に反応しているかどうかで視力があるかどうかくらいは判定できると思う。しかし何が、どう見えているか、何色に見えているのかなどは本人の言葉に頼るしかない。嘘をついているかもしれないが、嘘をつく理由や合理的なメリットが見当たらないので常識的に考えて、本人が「右です、下です。赤の方がはっきり見えます」と答えるのを信じるしかないのだ。
色弱のふりをする、近視のふりをすることは原理的には可能なのだと思うとまるでスパイ映画みたいでロマンがあると考える人もいるかもしれない。しかし私は途方もなく心細い気持ちになる。自分のすぐ隣にいる友達が、いつも仲良く会話している恋人が、本人の発話内容とは真逆の世界を見ているのかもしれないからだ。「そこに犬がいるね」「そうだね」「遠くに山が見えるね」「うん、綺麗だね」会話がかみ合うことによって我々は隣の他者が自分と同じ風景を見ていると安心する。しかし彼らが自分と正確に同じ光景を見ていると断言できる客観的根拠はどこにもない。断っておくが客観的に確かな物体や事象としての世界はきちんと存在しているだろう。それを疑っているわけではないが、それらを見ているそれぞれの別個の人間の見え方のことを取りざたしているのだ。他者の頭の中に入って考えていることを見たり、他者の眼球を通して同じようにものを見ることはできないのかというのは、「宇宙に果てはあるのかないのか」「宇宙の創造主はいるのかいないのか」と同質の問いに思える。
別に眼科にかぎった話ではないし、本人の感じ方はその人にしかわからないというだけのことなのだが、視覚はとりわけ外管に依ったものなので不思議な気持ちが余計膨れ上がるのだろう。
自分と他者それぞれの脳内という境界は、人知を超えた、人間には決して解決できない神秘のひとつである。
他者の言葉を厳密には体験できない我々は、今日も眼科で「左です、上です」と「本当のこと」を答える。眼科医もそれを信じる。嘘をつく理由がないからというふらついた根拠を確かなものとして下敷きにしながら。