今日もじじいの顔が良すぎて尊い・其の捌
映画刀剣乱舞はまだまだ絶讃上映中である!
後悔しないうちに是非是非劇場でご覧いただきたい!!
さて………其の漆からの続きである。そして、一番書きたかったのはこの回で書く場面だ。
途轍もなくネタバレになるので、映画を御覧になっていない方で、前世にネタバレに村を焼かれたり親を殺されたといったような辛い記憶のある方はここで読むのを止められたし。私はまだまだ映画刀剣乱舞を何度も観たいが故、仇討ちされるのは御免蒙りたい。
深手を負い追い詰められ、いよいよ己の最期を悟ったじじいは笑う。彼はゲームの方でも最期は笑うようなので(自分は台詞を聞くためだけに刀剣破壊する勇気はとても無い)、ここは靖子様が拾ってくださったところかも知れぬ。
自嘲のような諦めのような、しかしどこか達観しているような笑みでもある。初めから、最早此処まで、を覚悟していたのだろうとは思う。自暴自棄とまでは云わぬ。ただ単騎戦の途中、刀を振るいながらの笑みは若干狂気を孕んでいるようにも思えた。
永く共に寄り添ってきた主が去り往くのは最早止める術も無い。本丸と仲間を守るのは主命。それと引き換えに己が身が此処で折れるならばまた其れも運命。
あの時、主に「行って参る」と告げる迄の僅かな間は、その決心までの逡巡だったのかも知れない。戻らねば二度と会う事も無いことは分かっていても、主が去った本丸に戻ることの方が余程辛いと思ったのだろうか。
あの天下五剣の三日月宗近が力尽き、ゆっくりと倒れ行く様を、銀幕の前の我々はただただ固唾を呑んで見守ることしか出来ない。
そして巻き起こる桜乱舞からのくだりはここでは割愛する。長谷部を始め、仲間がそれぞれ口にする三日月への言葉の感想は別の章を割いて書きたい故。
ただここで是非書いておきたいのは、各々言われた言葉の中でも何より三日月の心を打つことになっただろうと思う骨喰の「俺にも戦う理由がわかってきた」という台詞だ。
己が彼自身に「ただ刀を振るうだけになってしまっては魔物」と諭しておきながら、時間遡行軍相手に孤軍奮闘していた先ほどの我が身こそまさに戦う本来の理由、つまり主命を忘れ刀を振るうただの魔物ではなかったか、と気づいたのではなかろうか。骨喰の言葉を聞いた後の三日月はまさに「横っ面を引っ叩かれて我に返った」ような顔をするのだ。
そうして放つ次の台詞が憎い。
「俺も………焼きが回ったな………」
この台詞、おそらくこれまでに2次元2.5次元3次元を問わず、過ちを犯した人間に言われ尽くされた台詞だろうと思うが、いやまさに刀剣男士が口にするための台詞である。
念のため補足すると「焼きが回る」とは、歳を取るなどして腕や頭の働きが鈍ることを指す慣用句なのだが、元の意味は「焼き=焼き入れ」つまり鍛刀の際に鋼を炎で熱し、急速に冷やす作業を繰り返す際に、熱を入れすぎて却って切れ味が悪くなることを云う。彼ら刀剣男士にとっては本来の意味も込めたダブルミーニングである。靖子様、してやったりの台詞ではないだろうか。
この後、じじいは薬研からもらった回復薬を飲むのだが、またその飲む姿が美しすぎて言語中枢が麻痺する。飲む姿が美しいとか、もう多分人ではないからだろう、ああそうだこの人そもそも神だった、としか思えない(すまぬおそらく何を言っているかわからないと思うが、私自身にもよくわからない)。
「では再び………始めよう」
復活した三日月の尊すぎる場面だが、この言葉、審神者ならガッツリ来るものがあると思う。さらにこの台詞、台本では「では再び始めよう!」となっているが、実際の台詞は上に書いた通りで、言葉の間に溜めがあり、語尾は決して「!」ではない。台本通りではなく、敢えてこうしたのは誰なのかがとても気になるところである。
さて………長々と書いてきたが、実は、私が皆様に真に訴えたいのはここからである。
心して読み進めていただきたい!
本丸に戻ると、主の部屋には時間遡行軍のボスである大太刀が土足で踏み込んでいる。三日月が何度もしつこく土禁を訴えてきているのは、これの伏線なのだろうと思う。その前に立ち、大太刀を遮る声はいたって冷静なのだが、おそらく内心は怒りで煮え滾っている。
そうして三日月は、もうこれ以上はない程に限りなく慈しみと哀しみが込められた声で主に最後の帰還の挨拶を告げる。
「主、三日月宗近、只今戻った」と。
この時彼は、背にした今にも消え逝く主の方にやや顔を向けつつも、決してその姿は見えていないだろう。敢えて見ないようにしているのではないかとも思う。主が次の審神者への代替わりを無事に終え、その証の光が潰えたとき、三日月は瞼をゆっくりと閉じる。見なくとももう心得ている。
主がいつものように頷いたこと、しかし、もうそこには居ないこと。
ただその瞼の伏せ方は、安土城で見せたあの絶望のように冷たい伏せ方ではなく、ただただ、慈哀に満ちているばかりだ。それは主が消えた絶望や悲しみというだけではなく、ただもうそこには居ない、再び逢うことは叶わぬ主への様々に巡る想い。それを、哀しみの言葉や涙などではなく瞼を伏せるというだけの仕草で全部物語っているのだ。
この、帰還の挨拶からの瞼を伏せるまで、の横顔が尊すぎて語彙が最早見当たらない。
三日月宗近を崇め奉る言葉をガンダーラとかに探しに行かねばならないだろうか。今の人にはグランドラインに探しに行くという方が伝わるだろうか。
尊すぎて生きるのが辛くなるのだが、また映画を観てこのシーンの横顔を拝みたいのでやはり生きることにする、と一瞬で思い直す横顔である。
なので劇場では、普通どのシーンも見やすいやや後ろ寄りのど真ん中に座るものと相場が決まっていると思うのだが、私はこのシーンをじっくり目の前で観たいがために、中央ではなく銀幕右寄りの席に座ることにしている。
大切な主との想い出に浸る間も刹那、無粋な声の邪魔が入る。それまで、歴史の全てを救ってそうな慈しみの表情が、絶対零度に変わる瞬間である。
「邪魔するな!」と叫ぶのは大太刀の方だが、多分三日月はそれは此方の台詞だと思っているに違いない。沸々と煮え滾っていた怒りがここで一気に爆発する。大太刀の攻撃を片手で易々と受ける三日月。そして追撃を一旦両手で受け、なんと刀を持ち替えて空いた右手を刀に添え、大太刀を審神者の部屋の窓と窓枠ごと庭に押し落とすのである。本人刀なのに、手で。剣技など全く無視で、ただただ力技である。
ここから一刻も早く出て行けと言わんばかりだ。
(多分後で算盤片手にした博多にめちゃくちゃ怒られる)
引かないと怖いお兄さんは絶対長谷部ではない。このじじいである。
大太刀に最期の留めを刺したのは三日月だが、爆散する大太刀を見遣るあの、眼。
怖い。怖すぎる。
倒した敵に対して何の情も憐憫も浮かんでいない(そりゃ大事な別れの余韻を台無しにされたのだから当然だが)、路傍の石に向ける以下の冷酷な視線である。この〇〇○ソ野郎が、などと云う汚い独白を当てても何ら違和感がないくらいだ。この一見薄情に見える部分は、彼らが人という形をして居ながらも、やはり刀であることの現れだとも思う。
そんなゴミク○野郎に浴びせた辛辣な氷の視線は、戦い終えて、皆に向けて微かに笑いながら頷く時には春風のようになっている。
だがしかしその後。
黙って主の部屋を見上げるその切なげな!!!横!!!!顔!!!!
そういうとこだぞじじい!! こっちが刀剣破壊するわ!!その横顔が尊すぎてしんどいと何度言えば!!!!
もう血反吐を吐きすぎて吐くものが無い。乾涸びている。
最早じじいの横顔は国宝でもなく世界遺産でもない。そのようなものは通り越している。
しんどくて、八嶋秀吉以上に転げまわりすぎて陣幕の外に飛び出しそうである。そしてそれは長谷部のせいにしたい。
ラスト、幼い審神者に背中から抱きつかれた瞬間、驚いてきゅるんってする眼がとにかくむちゃくちゃはちゃめちゃに可愛すぎる(語彙力が-99でカンスト)。
じじいヤバい。しんどい。尊い。
かっこよくて可愛いとかけしからん以外の何物でも無いじゃないか!!
さて。
長々と「映画刀剣乱舞」の三日月宗近の尊さについて書き連ねてきたが、彼については一旦ここで筆を置く。ここまで飽きずに読んでくださった方々に御礼申し上げる。
次回からは「じじいと愉快な仲間たち」について、ネタバレ編として書いて行きたいと思っている。