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79歳の祖母が泣いていた
「あたしの人生、本当につまらなかった」
天井を見つめたまま祖母がそう言うので、何も言えなかった。頬を濡らしているのが分かった。誰よりも強かった祖母の涙は見てはいけないものな気がして、そっと目を逸らした。
バイト先の最寄り駅に着いた瞬間、普段滅多に鳴らない私のスマホが鳴った。祖母からだった。電話口の向こうからは、まるでこの世の終わりのような泣き声が聞こえた。どうしたらいいのか分からなかった。「どうしたの、どこか痛いの」そう問いかけても、苦しそうな泣き声しか返ってこない。なんとか呼吸を整えさせた先にあったのは、「ご飯が無いよ、みんなあたしのことどうだって良いんだ、死んじゃうよ」という悲鳴だった。急いでバイト先に遅刻の連絡をして、祖母の家に向かった。電車に揺られている間、母と伯父に入れたメッセージは既読が付かなかった。なんだか物凄く独りだった。
家に着き玄関を開けると、居間に大きな介護ベッドが置かれていた。不自然に置かれたそのベッドに、虚ろな目をした祖母が横たわっていた。信じられなかった。あんなに元気で、薬ひとつも飲まず毎日ラジオ体操に行って、庭に咲いた花の世話を欠かさずしていたというのに。病気というやつは、なんて恐ろしいんだと思った。恥ずかしいことに、私は事の重大さを発症してから2年が経った今知ったのだ。頻繁に足がつるようで、呻き声を上げながら苦しむ祖母の足を2時間揉み続けた。生きている人間の足と言うには、違和感があった。腹を満たして少し楽になったのか、ある時から独り言のように話し始めた。同じ話を何度も何度もしていた。
「あの子(祖母の妹)がね、『○○(祖母)ちゃんの人生って、本当につまらないよね』って言うの」
17の時、好きでもない男性との縁談が死ぬことより嫌で、高校を中退し家を出た祖母。華の街、東京。上京したての少女が、どれほど不安だったか。住み込みで働き始め、20の時に祖父と結婚した。その年の夏に伯父が生まれ、また数年後に生まれた母と4人で暮らした。居酒屋を経営していた祖母は、夕方18時から朝の6時まで働きに行き、日が昇る頃、人々とは逆方向に進んで帰路に着いた。そんな生活を毎日していたら、誰だって気が狂う。当人含め全員が、「あの頃の祖母はヒステリックの塊だった」と言う。母親らしいことをする暇もなく、ただ毎日必死にお金を稼ぐのは、どういう心境だったのだろうか。そういう生活を、30年以上続けていた。母が私を出産したのを機に店を畳んだ祖母は、育休を終えた母たちのために週5日、雨の日も風の日も私を迎えに来てはおぶって祖母の家に連れ帰った。私はまだその背中を覚えている。強くて優しい背中だった。コロナが流行るまでの15年間、私を育ててくれた。
高校生の時、人生で1番嬉しかったことを何となく聞いたことがある。即答で
「あんたが生まれてきてくれたこと」
と答えられた。意外だった。普段そういった類のことを言わない祖母が、なんの躊躇いも、恥じらいもなくそう言うので、照れくさかったのを覚えている。それが今は、つまらなかったと言うのだ。これが本音だった。薬の副作用で多少は混乱しているのもあるが、ひとつの感情としてこれが何十年もあったのだ。なんだかそれが、どうしようもなくショックだった。「子育て終わったと思ったらあんたの面倒を見て、そうしたら今度は自分が病気になって、結局どこにも行けなかった」と。私はどんな顔をしていればいいのか分からなかった。どんな顔をして、その話に入ればいいのか分からなかった。祖母の目から涙が流れているのが見えて、自分が大罪を犯した人間のように思えた。その一方で、こんなに急いで、心配して駆けつけたのにそんなのあんまりだと思った。再びバイト先へ向かうため、電車に飛び乗った。その間ずっと、感情がぐちゃぐちゃだった。どんな顔をして会えばいいか分からなくて、この日から何となく会いに行けていない。未来の自分に酷く怒られることは分かっているのに、ずっとあの日で止まっている。
おばあちゃん、あなたはいつで止まっているんですか。