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見つかりたい

午前4時、私は池袋のカラオケボックスに居た。向かいのソファーでは無防備に横たわった友人がすやすやと眠っている。静かだ、と思った。隣の部屋は2時間前に入った客がどんちゃん騒ぎをしていて、注文された品を運ぶ店員の「失礼します」という声と共に、扉を開く音がしきりに聞こえた。それでも私たちの空間は静かだった。ドアの小窓から薄暗い部屋に差し込む光は、孤独に近い色をしていた。19歳と6ヶ月にして、私は初めて家に帰らなかった。


人生初のオール・カラオケは、健全そのものだった。「ねえ、私今すごく楽しい、朝までいける」珍しく友人がそう言うので私もなんだか嬉しくなり、「じゃあ朝までいこうか」と、慣れたような口調で返した。大学に入ってから、オール・カラオケをする機会が無かったわけではない。多分幾度もあった。それなのに何故かいつも終電2本前、遅くても終電には飛び乗った。帰らないと、不安で仕方なかった。少し酒の匂いが漂う満員電車に揺られ、へとへとになりながら帰った。最寄り駅に着くと、いつも決まって警察官が補導のために改札の傍で立っていた。高校生くらいの少女達が足早に改札を通り抜け、警察官の前をパスしようとして捕まっていた。私はもう見向きもされなかった。明らかに地毛ではない色をした髪に、凝った化粧、シルバーのピアス、そして派手なネイル。17、18には見えない。これに声をかける方がおかしい、自分でもそう思う。もう誰が見ても高校生には見えないのだと思うと、少し寂しかった。私はもう23時のシンデレラではなかった。駅前の店はどこも電気が消されシャッターが閉まっていて、吉野家の光が際立っていた。吸い込まれるように、その光の元へ大人たちが消えていった。私以外誰も歩いていない線路沿いは、その間だけ、私のものになった。私だけの道。私がスキップをしていても、歌いながら歩いていても、誰にも不審な目で見られる心配が無かった。それだけでも十分自由になれた気がしていた。


親が特段厳しいわけではない。幼い頃から酷く制限をされて育ったわけではなかった。むしろ、自由に生かされていた。テレビを観る時間を制限されたことも、起きている時間を制限されたことも、食事を制限されたこともなかった。私は、これまでの人生の大半を祖母と過ごしていた。両親が朝から夜遅くまで働きに出ている間、祖母の家に引き取られた。それはもう1歳から始まったことで、私の“普通”だった。幼稚園のバス停で私のことを待つのは祖母だったし、小学校から帰宅するのは祖母の家だった。祖母は大抵、煙草を片手に植木鉢の花に水をやったり、薔薇や椿の木を剪定したりしていた。茶の間にランドセルを置き、広いキッチンの奥にある薄暗い洗面台で手を洗った。右側についた大きな鏡に映る私の顔は、あまり好きではなかった。何となく体重計に乗り、複雑な気持ちになって降りた。茶の間に戻ると、私のおやつがいくつか用意されていた。大袋のポテトチップスや、いつも家に来る銀行員が持ってきたお菓子。それらを食べながら、勝手に録画していた大量のアニメを消化した。時計の短い針が“4”を指す頃になると、祖母はまな板と包丁、銀色のボウルを持ってきて、同じ空間で夕飯の支度を始めた。それはこんにゃくだったり、もやしだったりした。もやしの端と端を1本ずつ丁寧に取る作業を手伝おうとして、3本目くらいで投げ出した。こんにゃくを手綱状にする匂いは、少し苦手だった。どうして台所ではなく茶の間で下準備をしていたのか、それが祖母の優しさだったことに気づいたのは、祖母が台所に立てなくなってからだった。

私は体の弱い子供だったので、保健室の天井をよく眺めていた。ベッドのちょうど真上に貼ってある、大きな字で「ねつのはかりかた」と書かれたカラフルな模造紙を、暗唱できるようになるほど読み込んだ(誰かに披露したことは無かった)。保健室の先生がパソコンのキーボードを叩く音に安心して眠っていると、祖母が迎えに来た。いつも、そうだった。何年も前に買った赤紫色の古い自転車に乗って、迎えに来た。初めのうちは母親が迎えに来ることを期待していたが、迎えにきてくれる人がいるだけでありがたいと、自分に言い聞かせるようにした。「お粥食べるか?」と聞かれ、無愛想にも無言で首を縦に振ると、卵とネギが入った粥を鍋ごと出してくれた。腹を満たした後、祖母の部屋に敷いてある布団で眠った。祖母の布団はいつもお日様の匂いがした。テレビから流れるワイドショーの音が小さくなるのを感じながら、布団を抱きしめていた。寂しくはなかった。つらくもなかった。眠れば、何も気にならなかった。

父と母は、私によく「あなたは電車で泣いたり喚いたりしないで、私たちのことを困らせなかったし、すごくいい子だったよ」と、誇らしげな笑みを浮かべて話す。私たちの子供=賢い子とでも思っているのだろうか。それらは全て我慢の上に成り立っていたのならば、私の“いい子”は嘘になるのだろうか。いい子というのは時々、“可哀想”というやつに当てはまるらしい。高校生の時知り合った大人に、「あなたはどうしてそんなに大人びているのか」と、聞かれたことがある。そんなことを聞かれるのは初めてで、私なりにその理由を探った。考えて悩んで、思い浮かんだ答えは、「人の機嫌を察することが得意だから」だった。そうなった経緯を話すと、その大人は「そうならざるを得なかったんだね」と、少し辛そうに言った。救われた気持ちにも、哀れまれている気持ちにもなった。人の機嫌が悪くなることは、私にとっての危険だった。人の感情なんて本来他人が読むものではないが、私はそうすることでしか私の安全を守ることができなかった。始まりは多分、父が何かに取り憑かれたように何度も繰り返した、「パパとママ、どっちの方が好き?」という質問だったと思う。私の父は、手と足が生えた地雷そのものだった。そしてこれはこの歳になって分かったことだが、父は酷く愛に飢えていた。自分に自信の無い人だった。私と母、それぞれに執着していたし、家族にさえヤキモチを妬いていた。ただ、この事実に気がついたのは、私が大学生になってからだった。約18年間、私はずっと父の地雷が作動することを恐れて生きてきた。声色や僅かな表情の変化で父の全てを察知できるようになり、更にはこの先どう返答したら私の安全が危うくなるかまで予測することが容易くなった。この能力は色々なところで役立った。友人との会話、先生とのやり取り、私を取り巻く全ての世界で、それは役に立った。そして同時に、私は自分が子供であることを忘れていった。明日の天気よりも周りの顔色が気になった。人が笑っていると許されたような気持ちになった。身の丈に合わない能力を酷使した代償だったのかもしれない。私は一度、心の病に罹った。一度、いや、長い時間をかけてゆっくりと壊れていったのだと思う。子どもに我慢を強いる大人ほど、「子どもは子どもらしくしなさい」と、優しそうな顔をして言う。こうやって壊れていく子どもや壊れきってしまった大人を見る度、彼らの背景を想像しては具合が悪くなる。きっと私とは違う環境で壊れたのだろう。昔よりそう訴える人が多くなった?今の若者は心が弱い?そんなわけない。違う。ずっと前から私たちはいた。ずっといた。長い時を経て、私たちに名前がついて、やっと自分を生きている最中だ。長かったな、と思う。私たちは今も昔も、これからも、生きているし生きていくのだ。

私は、これを書いている今から約3ヶ月後に20歳になる。「20歳になったら死ぬ」と言っていた同級生のSNSには、誕生日を祝ってくれた恋人と幸せそうに笑う写真が更新されていた。そして振袖のチラシが毎日2、3枚は必ずポストに入れられるようになった。10代の女の子に届けられるそれは、ある種の特権のようにも思えた。それでいて、10代という称号が私たちの手元を離れるまでのカウントダウンのようにも思えた。もうすぐ20歳を迎える私は、大人なのだろうか。それとも子ども?大人として意見するには総てが浅すぎる。だが、子どものように声を上げて泣くことに躊躇うようになった。声を殺して泣く時、耳の奥が酷く痛むのを私はよく知っている。いつからか、「お疲れ様です」から始まる会話が増えた。笑いたくない時も笑えない時も、笑わなきゃいけないと判断することがある。そしてこれがまた上手く笑える。感情は伴っていないのに、嬉々とした声を出すことだってできる。だがそれをする度、私の心は少しずつ死んでいく。働いている時、大人でなくても大人をしている人に、大人にならなければいけないなんて馬鹿みたいだと、よく考える。世界はうんと広くなったのに、ずっと窮屈だ。私の人生は、一体何なのだろうか。中途半端に背負う責任は、私の決断力を鈍らせるには十分だった。私は、何をして生きるのが合っているのだろうか。私の幸せって、何?結婚することだと、母は言う。女の幸せは結婚。本当にそれが幸せな人もいるだろうから、私は別に否定しない。幸せを、自分の幸せを知っているなんて、羨ましい。それとも憧れていた職業に就くことだろうか。結婚できなくても、誰とも暮らせなくても、やりがいとお金を得ることが、私の幸せなのだろうか。本当は、うっすら分かっている。私が欲しいもの。目を向けてしまえば、もっと苦しくなる。決断をしなければならないから。欲しい、全部。安定した暮らしに、安定したお給料、それからある程度穏やかな人間関係。そして、誰かの役に立ちたい。手に入れたものを守り抜く自信もないのに、欲しいものばかりだ。全てを掴むのはきっと難しい。どちらか選択することが、今から少しだけ先の私を救うことになる。ただ、その選択が今の私には怖い。10代。私の10代。終わってしまう10代。悪い大人というやつは、たくさん見てきた。それでいて私も、悪い大人に近づいたり、離れたりしている。地球が太陽の周りを回るように、私は悪の周りを回っている。遠く離れた時に正気に戻り、後悔をする。“何になりたい”の最果てに、“自分を救いたい”があることに気づいてしまった。本当に救いたいのは常に自分だった。これを不誠実と言うのだろうか。高校2年の夏、担任が私にかけてくれた「結局はみんな自分を救いたいんですよ」という言葉を、これからも信じていて良いだろうか。私は人に希望を与えられるほど長けた何かを持っているわけでもなく、いつ何時も人の過ちを許せるような広い心を知らない。人に優しくできなくて自分を見失いそうになる日の方が多いし、自分の適応力に失望する。前に一度、電車内で倒れ込んでしまったお爺さんが、周りに促されても頑なに降りようとしなかったことがある。こっそりノイズキャンセリングを解除したイヤホンは、色んな声がよく聞こえた。誰かのため息。舌打ち。スマホゲームのBGM。全員が苛立っていた。散々悩んだ挙句、私は震えた声で「誰もあなたを迷惑だと思っていませんから、降りて休みましょう」と言っていた。心臓が痛かった。どうするのが正解だったのか、今でも分からない。何者かになりたい。憧れのあの人になりたい。誰かを助けたい。誰かを愛してみたい。全てを追いかける勇気が欲しい。それらを叶えたい。「今からなら何にでもなれるよ」と、10代ではなくなる私の背中を押して欲しい。欲しい欲しいばかりで、「なんだその甘えた姿勢は」と言われてしまうかもしれない。それでもやはり、人の愛し方なんて愛されてみないと分からない、そう思う。


私は、私のことが分からない。私は一体誰で、どういう人生を送っているのか。私に色をつけるとしたら、何色だろう。私の覚悟は何グラムで、どこまで届くだろう。誰にも殺されない個性は、私にもあるのだろうか。他人が苦労して出した答えに自分を重ねて落ち込むのは、いつかやめられるだろうか。強く、生きる。その言葉の意味が、最近ようやく理解できた気がする。強さとは、折れないことでも、逸れないことでも、なびかないことでもなく、また同じスタートラインに立てることだ。生きたいだけ生きる。生きたいように生きる。生きる、生きる。生きている間は、何度でもスタートラインに立てる。いつか行ってみたいところへのチケットは1分後に買えるし、食べてみたいものはお金さえあれば何度だって食べられる。そういうことを、私は10代のうちに知った。分かった。できた。全部できた。映画の中の話ではなくて、私の人生の話。視聴者ゼロの私の人生が、20年目を迎える。意味なんか無くても、誰にも評価されなくても、続いていく。

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