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3/15大日本帝国はなぜユダヤ人保護を公式政策としたのか?

伊勢 雅臣  2022/3/15(火)

https://vpoint.jp/world/eu/218413.html

日本は同盟国ナチス・ドイツの度重なる働きかけを拒否して、ユダヤ人保護を貫いた。その理由は?

●ナチス・ドイツとソ連のポーランド分割

 以前、どこかで見たようなことがある、という感覚を「既視感」といいますが、今回のロシアのウクライナ侵略にも既視感を感じました。それは1939年9月17日に、ソ連がポーランドに侵攻を始めたことです。

 一つ違う点は、この時はソ連単独ではなく、ナチスドイツとの協同謀議でした。ドイツ軍が9月1日にポーランドに侵攻し、ポーランド軍主力がドイツ軍と戦っている、その背後から襲ったのです。英仏は9月3日にドイツに対して宣戦布告し、ここに第二次大戦が始まりました。

現在の歴史観ではソ連は連合国側に立ってドイツと戦った、とされていますが、実は開戦時にはソ連はドイツに加担していたのです。しかし、ヒトラーはイギリスとの戦いに行き詰まりを感じ、「東方生存圏(ドイツ民族が生存のために必要な土地)」獲得のために、翌々年1941年6月に、一転してソ連を攻撃します。これによって、ソ連は連合国側につけたのです。

 ドイツとソ連に分割されたポーランドで、行き場を失ったのが、同国に住んでいたユダヤ人です。フランス、オランダともナチスに占領され、残るはシベリア鉄道によって極東に行き、日本経由で脱出するルートしか残されていませんでした。その日本の通過ビザを発給してくれたのが、リトアニアにある日本領事館でした。
しかし、そのリトアニアもソ連に併合され、日本領事館は1940年8月中の退去を命ぜられます。その情報を掴んだユダヤ難民たちが、退去前に通過ビザを貰おうと、7月18日朝から日本領事館に長い行列をつくりました。

当時の日本領事館には、杉原千畝(ちうね)領事代理一人しかいませんでした。ここから杉原は、連日、退去の日までビザを書き続けます。テレビ化、映画化もされた『命のビザ』の物語です。当時の日本領事館には、杉原千畝(ちうね)領事代理一人しかいませんでした。ここから杉原は、連日、退去の日までビザを書き続けます。テレビ化、映画化もされた『命のビザ』の物語です。

領事館前でビザを求めるユダヤ避難民たち

 しかし、一部の『命のビザ』の物語では、巧妙なプロパガンダが仕組まれています。まず「ナチスドイツのユダヤ人迫害に同調する日本政府の方針に反して、杉原がビザを発給した」と杉原の個人的善行に書き換えてしまったり、ほかにも多くのユダヤ人を救ってイスラエル政府から顕彰されている日本陸海軍軍人がいるのに、そちらは隠蔽されている、の2点です。

 しかし、一部の『命のビザ』の物語では、巧妙なプロパガンダが仕組まれています。まず「ナチスドイツのユダヤ人迫害に同調する日本政府の方針に反して、杉原がビザを発給した」と杉原の個人的善行に書き換えてしまったり、ほかにも多くのユダヤ人を救ってイスラエル政府から顕彰されている日本陸海軍軍人がいるのに、そちらは隠蔽されている、の2点です。

幸い、日本の対ユダヤ人政策に関して、イスラエルにおける日本研究の重鎮であるヘブライ大学のメロン・メッツィーニ名誉教授が広範な調査をもとに、ユダヤ人の視点から史実を明らかにした『日章旗のもとでユダヤ人はいかに生き延びたか』が出版されています。今回はこの本をもとに、ユダヤ人の側から見た、日本のユダヤ人保護政策の経緯を見てみましょう。

●「命のビザ」は日本政府の方針に基づいていた

 杉原千畝の行為が、国の方針を裏切ったものではなかったことをメッツィーニ教授は、簡潔にこう論証しています。

結局のところ、彼の経歴に傷はついていないのだ。カウナス以降、杉原は昇進し、ベルリンやプラハ、その後ブカレストにも派遣されたのである。ベルリン及びウィーンに勤務していた他の日本人外交官もユダヤ人難民に千二百件の査証を発給していることにも留意されなければならない。[メッツィーニ、p242]

ユダヤ人難民が規定の条件を満たしている限り、少なくとも通過ビザを発給することは、日本政府の方針だったのです。ただ、杉原が限られた時間に一人でも多くのユダヤ難民を救うために入国条件の確認などで規則から逸脱した点は、本省から叱責されたようです。

 それでも「命のビザ」で6千人とも言われる難民がウラジオストックから船で敦賀に上陸し、日本国内で人道的な保護を受けています。日本政府は杉原のビザを正式なものとして扱ったのです。[JOG(138、870)]

 もう一つ、杉原以外の陸海軍軍人によるユダヤ人保護ですが、以下の二つがあります。

・1937年12月、上述の「命のビザ」の2年7ヶ月前、シベリア鉄道で満洲国にやってきた多くのユダヤ難民(一説に2万人と言われるが、定かではない)が吹雪の中で足止めを食い、命の危険にさらされていた時、ハルピン特務機関長・樋口季一郎少将が入国を許して、救出しました。[JOG(085,086)]

・上海の日本海軍警備地区でのユダヤ難民収容施設。1939年夏に上海に赴任した犬塚惟重(これしげ)海軍大佐が維持し、世界でただ一ヵ所、ビザのないユダヤ難民も受け入れて、1万8千人を安全に保護していました。[JOG(260)]

これらの動きをメッツィーニ教授は総括して、次のように結論づけています。

ユダヤ人が未曾有の大惨事に見舞われていた時、日本が支配していた地域においては、迫害されたユダヤ人に対する日本政府およびほとんどの日本の人々の態度は、全体として公平でしかも人道的であったということだ。当時この事実は極めて重要であったし、それは今日でも、ユダヤの人々が簡単には忘れられない出来事なのだ。[メッツィーニ、p329]

●日本はなぜユダヤ人を救ったのか

 しかし、メッツィーニ教授は、歴史学者らしく、次のような疑問に答えようとします。

日本はなぜ、ナチスという同盟国からの度重なる働きかけを拒絶しつつ、一九三一年以降日本の勢力圏にあった約四万人のユダヤ人の生存を許したのか。[メッツィーニ、p18]

教授は膨大な資料をもとに、日本政府の対ユダヤ政策が形成されていく過程を追っていますが、最初のハイライトは1937年12月に満洲ハルピンで開かれた第一回極東ユダヤ民族会議でした。

 この会議には前述の樋口中将とともに、その部下で日本国内有数のユダヤ専門家・安江仙弘(やすえのりひろ)陸軍大佐以下、多数の日本軍幹部が参加していました。樋口中将は演説で、ドイツのユダヤ人排斥を非難し、日本は人種差別主義のイデオロギーには同調しない、と述べ、満場のユダヤ人聴衆の感激を呼びました。この会議に関して、メッツィーニ教授はこう評価しています。

東ユダヤ民族会議の成果の一つは賞賛に値する。日本軍の最上層部がこのプロジェクトに関与していたことは満州及び中国北部の日本軍にも理解されたのであり、こうして同地のユダヤ人は日本が一九四五年に降伏するまで独立性を維持できたし、その体制は無傷のまま残された。[メッツィーニ、p123]

この後、上述のように樋口はシベリア鉄道で満洲に入国しようとして吹雪の中で立ち往生していた多くのユダヤ人難民を救います。そのうちのかなりの人々は開拓農民としてハルピン奥地への入植が許されました。

 樋口のユダヤ人保護政策に関してナチス・ドイツから抗議が寄せられましたが、樋口の上司で後に首相となる東条英機参謀長は黙殺します。この後、樋口は参謀本部第二部長に栄転していますから、樋口の措置は当時の陸軍から見て、称賛こそされ、非難されるべきものではなかったのです。

●「帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神」

 その1年後の1938年12月6日、日本政府はユダヤ人政策に関する正式決定を行います。5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)にて「猶太(ユダヤ)人対策要綱」が承認されました。これはユダヤ人を「獨国(ドイツ)と同様極端に排斥するが如き態度に出づるは啻(ただ)に帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神に合致せざる」として、以下の3つの方針を定めたものでした。

・現在日本、満洲、支那に居住するユダヤ人は他国人と同様公正に扱い排斥しない。
・新たに来るユダヤ人は入国取締規則の範囲内で公正に対処する。
・ユダヤ人を日本、満洲、支那に積極的に招致はしないが、資本家、技術者など利用価値のある者はその限りではない。(すなわち招致も可)

「帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神」の代表的な事例は1919年、第一次大戦後のパリ講和会議で、国際連盟規約の中に「人種平等条項」を入れるよう提案したことです。しかし日本提案は圧倒的多数の国々の賛成を得ながら、議長の米国大統領ウィルソンによって「全会一致ではないから」との理由で葬り去られたのです。

●杉原千畝の「命のビザ」も五相会議決定に基づく

 「獨国(ドイツ)と同様極端に排斥するが如き態度」とは、その一ヶ月前に起こった「水晶の夜」と呼ばれる事件に象徴されます。これはドイツ全土に起こった反ユダヤ暴動で、ほとんどのユダヤ教会堂が焼討ちや打ち壊しにあい、7千5百のユダヤ人商店が破壊されました。夜の街路がガラスの破片で覆われて輝いたので、「水晶の夜」とよばれます。

 こういう反ユダヤ暴動の直後に、ドイツ政府を「獨国(ドイツ)と同様極端に排斥するが如き態度」と公然と批判したのです。
五相会議の決定は、外務省からすべての在外大使館、領事館に訓令として発出されました。難民に関しては、日本経由で渡航する第三国の入国ビザをもっていれば、「通過ビザ」は発給されるということです。

 メッツィーニ教授は五相会議の決定について、こう述べます。

この決定こそが、何千人ものユダヤ人の命を救う上で極めて有益であった。一九三九年九月に欧州で第二次世界大戦が勃発し、一九四〇年九月に枢軸協定が調印されたが、ベルリン、プラハ、ウィーンにいた日本の領事担当官たちは、その後も引き続き日本の通過査証を発給し続けた。その結果、多くのユダヤ人の命がナチスによる迫害から救われた。[メッツィーニ、p143]

杉原千畝副領事の「命のビザ」発給も、この訓令に基づくものでした

●五相会議の決定は、広く日本政府内に共有されていた

 五相会議の決定は、広く日本政府内にも共有されていた考えに基づいていました。日本国内ではソ連の共産革命でユダヤ人が中心的な役割を果たしていた、とか、英米の指導者はユダヤ資本に操られている、などの反ユダヤ・プロパガンダが流されていましたが、

日本の指導者の中に以上の見解を共有した者はほぼ皆無だった。むしろその対極として際立っていたのが、一九二六年から一九四一年にかけて外相に在任した有田八郎と松岡洋右だった。両外相は、いかなる時も日本政府が日本や日本の占領地でドイツ式の反ユダヤ主義政策を施行するとドイツに約束したことはないと論じた。[メッツィーニ、p257]

「日本がユダヤ問題について中立であるという評判はすでに欧州で知られており、実際の政策によっても支えられていた」と教授は指摘しています。[メッツィーニ、p85]

五相会議の決定は、単なる建前や、対外的なアピールではなく、多くの政治家、軍人に共有され、実際の政策に生かされたものだったのです。

●「なぜ日本はユダヤ人を保護したのか」

 さて、メッツイーニ教授は「なぜ日本はユダヤ人を保護したのか」という自身の設定した問いに、どう答えているのでしょか。

 教授は、いくつかの政治的、経済的な理由を挙げています。曰く「アメリカ政府に影響力のある在米ユダヤ人の協力によって、対米戦争を回避したかった」「ドイツの人種差別政策では、日本人も差別されていた」等々。こういう実利的な狙いも当然あったでしょう。
しかし、実利的な計算だけでは、長期間に、かつ「日本政府およびほとんどの日本の人々」まで一致してユダヤ人保護政策をとることは難しいでしょう。一般国民の伝統的精神に根ざした「根っこ」の力が働いた、と弊誌は考えます。これについては、メッツィーニ教授が引用している1944年1月の帝国議会での安藤紀三郎内相の発言がヒントとなります。

「日本政府の政策は人種による差別を根絶することだが、これは完全な平等を意味するものではない。すべての個人にはそれぞれにふさわしい、平和と繁栄の中で生活できる場所がある。日本の目標は共存と共栄という政策を実施することである」[メッツィーニ、p290]

これは明治天皇が五カ条のご誓文に即して国民に出された御宸翰(お手紙)の中で述べられた「天下億兆、一人も其処を得ざる時は、皆朕が罪なれば」(国内のすべての人々が、たった一人でも、その人にふさわしい場所を得られない時は、みな私の罪である)という言葉に根ざしています。
 
 世界の各国各民族がそれぞれ「処を得て」、互いの協力によって、より良い国際社会を造ることが、日本の理想でした。それはさらに遡って、「八紘一宇」(世界全が体一つ屋根の家族となる)という神武天皇の建国の詔勅に連なる理想でした。

「八紘一宇」が日本の世界侵略のスローガンであったというプロパガンダが流されていますが、安江大佐はこの言葉を盛んに使って、五相会議でのユダヤ人保護の根回しをしました。明治天皇の「四海同胞」とは、これを近代的に分かりやすく述べられたお言葉です。

欧米の人種差別主義、植民地主義は、この日本の理想からも受け入れられないものでした。ナチスドイツの度重なる働きかけを拒絶して、ユダヤ人保護政策をとったのは、日本の「根っこ」からの理想の力があったからだと考えます。

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