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ロマノフ家の記念碑がモスクワで除幕式

(ボルシェヴィキとは何かを理解できていないと話が進まないし、
ロスチャイルドとマルクスの関係も知る必要がある:フランク)

2024年11月03日(日)

ロマノフ家の記念碑がモスクワで除幕式

セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公と
その妻エリザベス・フェオドロヴナ大公妃は、
殺害されたロシア王室の一員であった。

20世紀のモスクワ総督セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ大公と
その妻エリザベス・フェオドロヴナ大公妃の記念碑が
金曜日にモスクワで除幕された。
除幕式は、大公妃の生誕160周年と夫妻の結婚140周年に合わせて行われた。

地下鉄トレチャコフスカヤ駅近くの小さな公園に設置された記念碑には、1884年の結婚式当日の夫妻の姿が描かれている。
エリザベス・フェオドロヴナはウエディングドレス姿で、
セルゲイ・アレクサンドロヴィチは
生命警備隊プレオブラジェンスキー連隊の軍服を着ている。

モスクワ市長セルゲイ・ソビャーニンと
聖エリザベス・聖セルギウス教育協会財団が記念碑の建設を開始した。

ドイツのヘッセ・ダルムシュタット公
エリザベート・アレクサンドラ・ルイーズ・アリスとして生まれた
エリザベート・フェオドロヴナ大公妃は、
皇帝アレクサンドル3世の弟である
モスクワ総督セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ大公と結婚した。

彼女は正教に改宗し、エリザベス・フェオドロヴナと名乗った。
大公妃は慈善活動で知られ、1905年に夫が爆弾テロで死亡した後、
聖マルタ・マリア修道院を開き、修道女となった。

1917年のボリシェヴィキ革命後、彼女はロシアを離れることを拒否し、
逮捕され、後にロマノフ家の17人のメンバーとともに殺害された。

最後のロシア皇帝ニコライ2世とその妻、5人の子どもたちは、
1918年7月16日から17日の夜、
ウラル山脈のエカテリンブルク郊外で
ボリシェヴィキによって殺害された。

エリザベス・フェオドロヴナは翌日、
近くの町アラパエフスクからほど近い場所で最期を迎えた。
彼女は、ロマノフの名を持つ他の数人とともに、
廃坑に生きたまま投げ込まれた。

公爵夫人は、
ニコライ2世とその家族が列聖される8年前の1992年に、
ロシア正教会によって殉教者であり聖人であると宣言された。

モスクワでは、
大公妃をはじめ、殺害された王家の一族に捧げる
さまざまなイベントも開催されている。

ロマノフ家の人々
セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ大公
エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃

ロシア革命後のロシア内戦時代に、革命勢力であるボルシェヴィキ(レーニンが率いた左派の一派)に対抗する反革命勢力が拡散させたものだった。ボリシェヴィキの指導者にトロツキーやジノヴィエフなどユダヤ系の革命家がいたことから、反革命側はボリシェヴィキによる革命を世界制覇をたくらむユダヤ人による陰謀とみなしていたのである。

ロシア革命に際してユダヤ人は様々な潮流に属していた。当時から流布していた「ユダヤ人=ボリシェヴィキ」という固定観念(それ自体反ユダヤ主義の原因となっていた)に反して、ボリシェヴィキにユダヤ人は少なく、多くはメンシェヴィキやユダヤ人の組織であるブンドで活動していた。また、商業従事者(と言っても多くは経済的には下層)も多かったユダヤ人にあっては、社会主義支持は自明ではなく、革命時はシオニズムの支持もユダヤ系の政党内では最も高く、十月革命後、自由主義者と君主主義者からなる白系勢力に与したユダヤ人も少なくなかった。
中澤孝之著
『ロシア革命で活躍したユダヤ人たち 帝政転覆の主役を演じた背景を探る』 (角川学芸出版,2011年,608ページ)
鈴木肇 (平成国際大学名誉教授
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees/2012/41/2012_118/_pdf/-char/ja


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