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池田大作とは何者だった?

2025年02月17日(月)

宗教界の巨人の実像 

極秘資料からたどる「創価学会」の黒歴史

創価学会と故・池田大作名誉会長(2023年死去)の
秘められた歴史が書かれているのが、
高橋篤史著『創価学会秘録』だ。

本書は、極めて限られた関係者しか見られなかった
2つの秘密資料をベースに書かれている。

1つは、創価学会自らがまとめた
「総合経過年表」と題する内部資料であり、
もう1つは宗門(日蓮正宗)の高僧が書き残した
通称「河辺メモ」と呼ばれる備忘録だ。

前者は、かつての中枢幹部にして弁護士、
そして創価学会史上、最悪の反逆者となった
山崎正友(故人)への対策資料として作られたものだ。

後者は日蓮正宗の総本山・大石寺(静岡県富士宮市)の
第67世法主である阿部日顕(故人)の懐刀とされた有力僧侶、
河辺慈篤(故人)による手書きの日記風備忘録だ。

この2つの資料に加え、
筆者が公刊資料から裁判記録まで幅広く渉猟し、
創価学会と池田名誉会長の実像に迫ったのが本書である。

そのエッセンスを3回に分けて紹介する。

■32歳でトップに立った池田大作名誉会長  
2023年11月に死去した池田大作名誉会長は、
日蓮正宗内で信徒団体の1つに過ぎなかった
創価学会を公称827万世帯の巨大宗教団体に急成長させたカリスマだった。

反面、有力な指導者が見当たらない今日の組織衰退を招いた原因もまた
池田の過去のふるまいに求められる。

それは側近中の側近として重用した山崎正友に裏切られたことで
会長辞任を余儀なくされ、
それがため次第に肥大化し制御不能となった
猜疑心によって後継候補を潰しに潰してきたからである。  

今から65年前の1960年、
池田は32歳の若さで創価学会の第3代会長に就く。
当時、大人数で寄って集っての強引な「折伏」で
会員を獲得し急成長した創価学会は
選挙違反さえ繰り返す粗野な集団だったが、
第2代会長の戸田城聖は
そんなことなどお構いなくマスコミが来ても
裏表なく平然とした態度だった。

しかし、池田は違った。
小説『人間革命』の連載開始などで世間に融和的な態度へと改めつつ、
その裏側では「邪宗」「邪教」と蔑んだ
他宗教・他宗派など敵対勢力に対する攻撃姿勢を
水面下に潜らせたのである。

その1つが出版妨害工作だった。  
以下、「第5章 言論出版妨害問題の蹉跌」から引用する。
一九六七年九月二十日、
先に(公明党都議の)藤原行正が名指しした
新宗連の機関紙『新宗教新聞』に新刊本の広告が掲載された。

タイトルは『これが創価学会だ』で、
サブタイトルは「元学会幹部43人の告白」、
著者の植村左内は学会の元会員とされた。(中略)

広告掲載の前後、見本はすぐに創価学会の手に渡ることとなる。
この時、出版妨害に動いたのは(公明党)参議院議員の辻武寿と
東京都議の龍年光だった。

発売を九日後に控えた十月一日、
二人は自民党本部に行き、
まずは全国組織委員長の辻寛一と面談したとされる。

学会側は八方手を尽くして何としても出版を止めようとしたと見え、
さらに翌日、この件で自民党本部に現れたのは
党都連会長の賀屋興宣だった。
公明党関係者の差し金である。

東條英機内閣で大蔵大臣を務めA級戦犯としていったんは
終身刑に服すという歴史の生き証人でもある賀屋は、
幹事長の福田赳夫に対し、
ベテラン国会議員らしからぬ取り乱しようでこう事情を話した。

「実は公明党から頼まれたのだが、
某書房が出版を予定している“これが公明党だ”という本を
なんとかやめてもらえないだろうか」

こうした政治ルートでの工作がうまく行かないと見た
創価学会のとった手段は法的な圧力である。

十月四日、創価学会と公明党は、
版元のしなの出版に対し出版禁止の仮処分を東京地裁に申し立てた。

学会側が挙げた問題個所は
大石寺をめぐる言い伝えから
学会組織内における不倫の横行に至るまで七点にわたり、
それらは事実無根だとして糾弾、
学会や公明党の幹部の暮らしぶりは質素で清廉潔白などと主張した。

結局、この申し立ては十日後にあっけなく却下され、
その間に件の書籍は刊行の運びとなる。

しかし、創価学会の出版妨害は執拗に続いた。
こんどは名誉毀損だとして損害賠償請求訴訟を起こすとともに、
刑事告訴にまで及んだのである。

告訴の相手には立正佼成会トップの庭野(日敬)も含めていた。
問題の新刊本を大量に注文したというのがその理由だ。

こうした一方、創価学会は仲介者を立てての懐柔工作も同時に進めた。
例の内部資料である「総合経過年表」によると、
和解の話し合いが初めて持たれたのは十一月一日とされる。

仲介者は日本大学で会頭を務める古田重二良だった。
古田は日大のマンモス化に道を開いた教育界の大物で、
同時に保守寄りのフィクサーとして
立正佼成会など新宗教団体を自民党支持に導こうと
三年前に「宗教センター」なる社団法人を設立し理事長に収まっていた。

臨終の時を日大病院で迎えるなど、
戸田時代から創価学会は何かと日大との縁が深い。
そんななか、具体的経緯は必ずしも詳らかでないものの、
古田は宿敵である立正佼成会とのパイプもあり、
仲介者として適任だったのだろう。

年が明けた一月、
学会と版元、著者との間では和解文書が交わされた。
立正佼成会の影響下にあった新宗連が書籍を回収し、
著者側の謝罪念書とともに古田にそれらを引き渡す
との内容だったとされる。

後年、植村はかわりに学会側から「邪宗攻撃」を行わない
との確約をとったと主張している。

古田に引き渡された大量の書籍は
焼却されたとも裁断されたとも諸説あるが、
いずれにせよこの世からすっと消えて無くなったのである。

これら裏の言論戦が活発になるなか、
創価学会内で隠然たる力を持ちつつあったのが弁護士グループだった。

『これが創価学会だ』をめぐる出版禁止仮処分で申立書に名を連ねた
学会側弁護士は三人いた。

その一人はまだ三十歳そこそこの駆け出し弁護士だったが、
学会では彗星の如く現れた新進気鋭の若手幹部だった。
その人物こそが「山友」こと山崎正友である。

■トラブルシューター・山崎の暗躍  
この後、池田の信認厚い山崎は大石寺の地元・富士宮市への
懐柔工作などに携わることで当時の法主・日達に食い込み、
学会内部では天敵である共産党との相互不可侵を目論んだ
創共協定の極秘交渉に携わるなどし、立場を強めた。

が、トラブルシューターである山崎は、
逆に創価学会と宗門との対立を激化させるため離間工作に走り、
それによって自らの金銭欲と出世欲を実現しようとの
悪魔的な行為に手を染めていくこととなる――。  (敬称略)


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