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科学と聖書にまつわる随想(34)
「明順応と暗順応」
眼は、人体の様々な器官の中でもとりわけ複雑で精巧緻密な構造を持ち、特殊な機能を担っている器官だと思います。これだけをとってみても、進化論者が主張するように偶然の連鎖で自然にこのような機能体ができ上がったと考えるのは、あまりにも愚かしい事と言えるのではないでしょうか。
光を取り込むという目的から、先ず、透明な構成材料が必要です。人体を構成する物質で、唾液や涙などの透明な分泌液は別として、他に透明な物質はあるでしょうか? さらに、映像として情報を取得するために、ピント合わせと2次元カラー画像センサの機能、明るさ調節のための絞りの機能が必要です。また、向きを変えたり、露光面を保護したりする機能も必要です。眼は、これら全てを巧妙な仕組みで備えています。しかも、2次元映像から立体的な情報を構築することができるように、左右に同じものが2つ存在しています。そして、これら全体の機能が、人が意識して制御できる部分と無意識のうちに自動制御で機能する部分に分かれてはいつつ、両者が互いに調和して働く絶妙なバランスが維持されています。
明るさ調節のための絞りの働きをするのが“虹彩”です。虹彩の色が、いわゆる“眼の色”です。虹彩の中央の丸い開口部が“瞳孔”です。周囲の明るさによって、瞳孔の大きさが変化することによって、中に入る光量を調節します。こういう動きをするために、円環状と放射状の2種類の繊細な筋肉が仕組まれていることは驚きです。そして、これらの筋肉の動きは私たちが意識せずとも自動調節されています。カメラの絞りの場合は、複数枚の絞り羽根がずれ動くことで開口部の大きさを変えていますが、絞り羽根の枚数は限られますから、どうしても開口部は完全な円にはなりません。しかし、眼の虹彩の場合は、瞳孔がほぼ真円の状態を保ったまま直径を変化させることができるのですから優れモノです。
画像センサの働きをするのが“網膜”で、網膜に無数に並んだ視細胞で光を感じて、神経で伝達される電気信号が生成されます。視細胞は、明暗のみに反応する“杆体細胞”と、色(つまり、光の波長)に反応する“錐体細胞”とから成ります。視細胞で光を感じる原理は化学反応ですので、やはり応答速度には限界があります。この点は、半導体光センサには及ばないところではあります。
明るく光量が十分にある環境では、主に錐体細胞が働き、カラー映像を取得することができます。この時、 杆体細胞内の光を感じる“ロドプシン”というタンパク質に含まれる“レチナール”という分子が、光を吸収することで、ほとんどが形状変化してしまっているそうです。明るいところから暗いところに移動すると、徐々にレチナールが元の形状に戻って行くことで、わずかな光でも感じることができるようになります。しかし、この戻る変化は緩やかにしか進まないため、明るいところから急に暗い部屋に入った時に、十分な量のレチナールが元の形に戻り、眼が慣れて見えるようになるまでにはかなり時間が必要な訳です。
明るさに眼が慣れることを“明順応”、暗さに慣れることを“暗順応”といいますが、虹彩の瞳孔調節は素早いので、応答スピードは網膜の視細胞の反応で決まります。一般に、明順応は比較的速いのに対し、暗順応には時間を要し、完全に杆体細胞のレチナールが元に戻ってロドプシンが復活し、感度を取り戻すには1時間程度かかるそうです。しかし、人間の眼は非常に高感度にできており、全くの暗闇の中に慣れると、ほんとにごく僅かな光でも感じることができるようになるそうです。
旧約聖書の時代、メシアを待ち望むイスラエルの民は長い間、暗闇の中を歩んでいました。旧約時代の長い歴史は、暗闇に暗順応して光に対する感度を研ぎ澄ますために必要な時間だったのかもしれません。
「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」
その輝く光とは、もちろんイエス・キリストのことです。人として来られたイエス・キリストは、もちろん人々の眼に見える存在でしたが、神(創造主)の栄光は、本来、私たち罪ある者の眼では、眩しくてとても直視することなどできないものでしょう。
「また言われた。『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。』」
しかし、十字架による贖いと復活の力を信じる私たちは、やがて天において速やかに明順応することができます。
「 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」