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第5章 実体的資本蓄積の2つのファイナンス方法

本章においては、貯蓄と投資の関係を複式簿記で分析していく上で、国内のみで経済活動が完結する閉鎖経済を仮定する。

ケインズは「一般理論」の第6章「所得、貯蓄および投資の定義」において、『貯蓄額は個々の消費者の集合行動の結果であり投資額は個々の企業者の集合行動の結果であるにもかかわらず、これら二つの額は、いずれも所得の消費に対する超過額と同等であるから、必ず等しくなる』と述べている。そして、これを簡略化して、以下の恒等式で貯蓄と投資との均衡を示している(Keynes, p.38)。

Income = value of output = consumption + investment.
Saving = income − consumption.
Therefore saving = investment.

ここで各項目を日本語と対応する記号に置き換えると、以下の通りである。

①式 国民所得(Y)=消費(C)+投資(I)
②式 貯蓄(S)=国民所得(Y)-消費(C)
③式 よって、貯蓄(S)=投資(I)

更にケインズは、『貯蓄量と投資量の均等は、一方の生産者、他方の消費者あるいは資本装備の購入者、これら両者の取引が二方向的な性格をもつところから生じる』と述べた上で、『要するに投資活動は本性上、われわれが残余や残差と呼ぶ貯蓄を、投資の分だけ増加させずにはおかないのである』(Keynes,p.39)旨の結論を述べている。

5-1. 貯蓄(≒資本: Equity Finance)による投資

しかし、「一般理論」の続く第7章「貯蓄と投資の意味-続論」において、『大衆が増加した所得を消費と貯蓄に振り分ける割合(限界消費性向と限界貯蓄性向)を「自由選択」した結果、得られる「純正」貯蓄のみが投資家の投資支出の財源となり得る』ことから、貯蓄(≒資本: Equity Finance)による投資のみをケインズは想定していたものと考えられる。ケインズは、以下のような筋書きで借入(Debt finance)による投資を否定している。

『銀行体系の行う信用創造は相応の「純正貯蓄」がなくとも投資を生ぜしめるという発想は、ただひとえに、銀行信用の拡張がもたらす結果の一つだけを切り離して、他の諸結果を無視するところから生じる。』(Keynes, p.38)
『大衆は増加した彼らの所得を貯蓄と〔消費〕支出にどのような割合で振り分けるかについて「自由選択」を行う。そのさい、投資を増やすために借入れを行った企業者の意図が、大衆が貯蓄を増やそうとするより速い速度で実現するのは(その投資がどのみち起こったはずの他の企業者の投資の肩代わりである場合を除けば)不可能である。』(Keynes, p.38)

『こうしてみると、貯蓄は必ず投資をともなうという旧来の見解は、不完全で誤解を招くおそれがあるとはいえ、論理形式面で見ると、投資がなくとも貯蓄はありうる、あるいは「純正」貯蓄がなくても投資はありうるとする新式の見解よりはよほどまっとうである。』(Keynes, p.38)

『大衆の側に賃金単位表示の貯蓄を増やす用意がなければ賃金単位表示の投資の増加は起こりえない。』(Keynes,p.72)

このように、ケインズが想定した貯蓄(≒資本: Equity Finance)による投資の場合、投資家は、貯蓄(S)≡資本蓄積(ΔK)という形態で保有するマネーストック(M)を投資支出に活用すると考えるのである。

投資家

投資家の観点からすれば、具体的なマネーストック(M)の挙動は以下の通りとなる。①式「Y=C+I」によって決定された国民所得(Y)を前提として、②式「S=Y-C」によって貯蓄(S)の金額が決定される。この場合、国民所得(Y)、消費(C)、投資(I)、そして貯蓄(S)はいずれもマネーストック(M)を媒介とする取引から発生するものであるから、4.資本勘定の貸方(右側)で資本(K)ストックに変換される前の貯蓄(S)は、投資家の保有する銀行預金(金融資産)に対応する。同時に、これを銀行の側から見れば、銀行の負債であるマネーストック(M)の形態を取ることとなる。

貯蓄(S)は、同額で4.資本勘定の貸方(右側)で資本(K)ストックに変換(振替)される。他方、その貯蓄(S)に対応するマネーストック(M)は5.金融勘定の貸方(右側)に計上されており、投資支出と同時に資本財の買手から売手の口座に振替えられる。そして、これと同額で4.資本勘定の借方(左側)で投資支出(I':純固定資本形成)として記録される。

この流れを投資家の観点による複式仕訳で表現すると、以下の通りである。数値例として、100億円の貯蓄(S)と同額の投資(I':純固定資本形成)支出の場合を示す。なお、100億円の貯蓄(S)はキャッシュの変動を伴わない固定資本減耗控除後の純貯蓄であるから、現実の「現金預金(マネーストック)=総貯蓄=総投資(I:総固定資本形成)」の金額は「100億円+固定資本減耗」となることに留意を要する。

a) 貯蓄の発生及びマネーストックの獲得
(借方:BS及び金融勘定)現金預金(マネーストック)100
   (貸方:資本勘定)貯蓄(S)100

b) 投資支出
(借方:資本勘定)投資(I':純固定資本形成)100
(貸方:BS及び金融勘定)現金預金(マネーストック)100

この2つの仕訳をまとめると(貸借同額の勘定科目を相殺消去すると)、SNAの4.資本勘定における下記の仕訳c)が得られる。

c) 投資(純固定資本形成)の変動(ΔI')≡貯蓄の変動(ΔS)
(借方:資本勘定)投資(ΔI':純固定資本形成)100
   (貸方:資本勘定)貯蓄(ΔS)100

そして、SNAの4.資本勘定の貸方(右側)において、下記の仕訳d)によって貯蓄(S)フローが資本(K)ストックへと変換(振替)される。

d) 貯蓄(S)フローの資本(K)ストックへの変換(振替)
(借方:資本勘定)貯蓄(S)100
(貸方:BS及び資本勘定)資本蓄積(ΔK)100

出発点の仕訳a)が意味するのは、「最初に貯蓄(S)ありき」ということである。これこそが、ケインズ以降、経済学者が無意識のうちに囚われていた暗黙の仮定(tacit postulate)である。実際、ケインズ自身、「一般理論」の第6章では、恒等式⑦-2「投資(純固定資本形成)の変動(ΔI')≡貯蓄の変動(ΔS)」に関して正しい解釈に到達していながら、第7章に至ると残念なことに直感的な推論に基づく「貯蓄(S)→投資(I)」という一方向の因果関係に囚われていたように見受けられる。

ケインズの業績の偉大さは何人たりとも否定できないが、その偉大さ故に「一般理論」後80年以上にわたって経済学者の思考のパラダイムまで固定化してしまったのではないだろうか。かかるケインズのパラダイムを転換するには、会計恒等式(accounting identity)の観点からSNAをT型勘定に組み替えた上で、ゼロから複式簿記の仕訳のロジックを積み上げていく他はない。

5-2. 借入(Debt Finance)による投資の特殊理論

借入(Debt finance)による投資における取引やマネーストックの流れを複式仕訳で表現すると、以下の通りである。数値例として、100億円の銀行借入と同額の追加的な投資(ΔI)支出の場合を示す。

銀行家

e) 投資家への銀行貸付
(借方:BS及び金融勘定)貸付金100
   (貸方:BS及び金融勘定)預金通貨(マネーストック)100

投資家

a') 銀行借入(Debt finance)
(借方:BS及び金融勘定)現金預金(マネーストック)100
   (貸方:BS及び金融勘定)借入金100

b) 投資支出
(借方:資本勘定)投資(I':純固定資本形成)100
(貸方:BS及び金融勘定)現金預金(マネーストック)100

貯蓄(≒資本: Equity Finance)による投資との違いは、この仕訳a')の貸方(右側)に計上される勘定科目が4.資本勘定の「貯蓄(S)」から5.金融勘定の「負債」に変わったことである。

投資財の売手

ここで、投資財の売手の観点から、借入(Debt Finance)による投資の場合その流れを複式仕訳f)で表現すると、以下の通りである。数値例として、100億円の投資財の売上の場合を示す。なお、投資財の売手の観点からの複式仕訳であるから、投資家が借入(Debt finance)を財源としているのか、あるいは貯蓄(≒資本: Equity Finance)を財源としているのか、そのいずれであっても一切違いは生じない。

f-1) 総需要(売上)の発生
(借方:BS及び金融勘定)現金預金(マネーストック)100
(貸方:国内総生産勘定)国内総生産(投資財の売上[I':純固定資本形成])100

f-2) 国民所得(Y)への振替
(借方:国内総生産勘定)国内総生産(投資財の売上[I':純固定資本形成])100
(貸方:所得支出勘定)国民所得(Y)100

f-3) 国民所得(Y)の貯蓄(S)への振替
(借方:所得支出勘定)国民所得(Y)100
(貸方:資本勘定)貯蓄(S)100

この3つの仕訳をまとめると(貸借同額の勘定科目を相殺消去すると)、下記の仕訳f)が得られる。

f) 貯蓄の発生及びマネーストックの獲得
(借方:BS及び金融勘定)現金預金(マネーストック)100
   (貸方:資本勘定)貯蓄(S)100

手品のように思われるかも知れないが、実は、この投資財の売手の観点による仕訳d)は、貯蓄(≒資本: Equity Finance)による投資の場合の仕訳a)と全く同一なものである。種も仕掛けもないが、これが複式簿記の厳密なロジック、すなわち会計恒等式(Accounting Identity)から導かれる結論である。
従って、借入(Debt Finance)による投資の場合の銀行家、投資家、そして投資財の売手の上記仕訳をまとめると(貸借同額の勘定科目を相殺消去すると)、以下の2つの複式仕訳が得られる。

c) 投資(純固定資本形成)の変動(ΔI')≡貯蓄の変動(ΔS)
(借方:資本勘定)投資(I':純固定資本形成)100
   (貸方:資本勘定)貯蓄(S)100

g)銀行家と投資家との間での債権債務関係
(借方:BS及び金融勘定)貸付金100
   (貸方:BS及び金融勘定)借入金100

まず、仕訳c)は、貯蓄(≒資本: Equity Finance)による投資の場合の仕訳c)と全く同一である。それが意味するのは、借入(Debt Finance)による投資の場合であっても、恒等式「貯蓄(S)=投資(I)」が成立し、従って、「投資(I)→貯蓄(S)」との因果の流れもまた成立するということである。
そして、SNAの4.資本勘定の貸方(右側)において、貯蓄(≒資本: Equity Finance)による投資の場合と同様、仕訳d)によって貯蓄(S)フローが資本(K)ストックへと変換(振替)される。

d) 貯蓄(S)フローの資本(K)ストックへの変換(振替)
(借方:資本勘定)貯蓄(S)100
(貸方:BS及び資本勘定)資本蓄積(ΔK)100

次に、仕訳g)が意味するのは、銀行家と投資家との間での債権債務関係である。投資家が借入(Debt Finance)による投資を行う場合、恒等式⑥「銀行の金融資産(投融資)の変動≡マネーストック変動(ΔM)」が成立すると同時に、恒等式「貯蓄(S)=投資(I)」もまた成立する。その意味するところは、借入(Debt Finance)による投資と同額で、①マネーストック増加(ΔM)及び②貯蓄の増加(ΔS)≡資本蓄積(ΔK)が生ずるということである。

投資家が契約通りに元本及び金利を償還しているならば、問題は生じない。しかし、仮に投資家が当該投資によって取得した資産によって生み出される将来キャッシュ・インフローが目論見通りに行かず、銀行の貸付金が不良債権化した場合、全てが逆回転する。銀行システムの恒等式⑥「銀行の金融資産(投融資)の変動≡マネーストック変動(ΔM)」がもはや成立しなくなり、更に円建という計算単位(unit of account)で預金残高までのマネーの引出しができなくなれば、円建という計算単位でのマネーストック(M)の安定性への信任が揺らぎ、取り付け騒ぎ等のパニックや銀行システム全体の金融危機が発生する。

我が国の1990年代前半のバブル崩壊と1990年代後半の金融危機においても、上記のようなプロセスが見られる。その後の1998年のアジア通貨危機、2008年の世界金融危機においても、不良債権問題に端を発する金融危機が発生したものと考えられる。

借入(Debt Finance)による投資の償還支出

これとは逆に、借入(Debt Finance)による投資の償還支出に関する仕訳h)は、以下の通りである。具体的には、上記仕訳a')の貸方で計上された負債元本100億円の銀行に対する償還支出100億円を意味する。

【投資家】
h) 償還支出
(借方:BS及び金融勘定)負債100
   (貸方:BS及び金融勘定)現金預金(マネーストック)100

これに対応する銀行の貸付金回収の仕訳は以下の通りである。従って、一国経済全体では、マネーストック100億円が減少する信用収縮が生ずる。

【銀行】
i)(借方:BS及び金融勘定)現金預金(マネーストック)100
(貸方:BS及び金融勘定)金融資産(貸付金)100

一国経済全体で見れば上記の通りだが、現実には、100億円の銀行借入の借手であり、かつ、100億円の投資支出を行う事業会社X(投資財の買手)は、その100億円の投資財の売手として100億円の資本蓄積(利益剰余金)を稼得した事業会社Yとは当然のことながら別会社である。従って、事業会社Xの借入(Debt Finance)による投資の償還支出は、原則として借入金償還支出時までの損益取引によって稼得する資本蓄積(利益剰余金)と減価償却累計額、言い換えればこれに対応する現金預金(マネーストック)を償還(redemption)の原資としなければならない。

5-3.投資の一般理論

借入(Debt finance)による投資または貯蓄(≒資本: Equity Finance)による投資のいずれかを問わず、前節で示した投資家の仕訳b)及び資本財の売手の仕訳f-1)、f-2)並びにf-3)は常に必ず成立する。

【投資家】
b) 投資支出
(借方:資本勘定)投資(I':純固定資本形成)100
(貸方:BS及び金融勘定)現金預金(マネーストック)100

【資本財の売手】
f-1) 総需要(売上)の発生
(借方:BS及び金融勘定)現金預金(マネーストック)100
(貸方:国内総生産勘定)国内総生産(投資財の売上[I':純固定資本形成])100

f-2) 国民所得(Y)への振替
(借方:国内総生産勘定)国内総生産(投資財の売上[I':純固定資本形成])100
(貸方:所得支出勘定)国民所得(Y)100

f-3) 国民所得(Y)の貯蓄(S)への振替
(借方:所得支出勘定)国民所得(Y)100
(貸方:資本勘定)貯蓄(S)100

これら3つの仕訳をまとめると(貸借同額の勘定科目を相殺消去すると)、以下の複式仕訳c)が得られる。

c) 投資(純固定資本形成)の変動(ΔI')≡貯蓄の変動(ΔS)
(借方:資本勘定)投資(I':純固定資本形成)100
   (貸方:資本勘定)貯蓄(S)100

ここで、上記の仕訳f-3)及びc)を会計恒等式として示すと、それぞれ以下の恒等式⑦-1及び⑦-2が得られる。

恒等式⑦-1 [借方]投資による国民所得の変動(ΔY)≡[貸方]貯蓄の変動(ΔS)
恒等式⑦-2 [借方]投資(純固定資本形成)の変動(ΔI')≡[貸方]貯蓄の変動(ΔS)

「貨幣は重要である(Money matters.)の経路

恒等式⑦-2「投資(純固定資本形成)の変動(ΔI')≡貯蓄の変動(ΔS)」こそ、本稿の第四定理「投資(I')自体がそれと同額の貯蓄(S≒資本蓄積ΔK)を生み出す(Investment creates its own saving)」ことを証明するものである。

第四定理「投資(I')自体がそれと同額の貯蓄(S≒資本蓄積ΔK)を生み出す(Investment creates its own saving)。」

そして、借入(Debt Finance)による投資の場合、恒等式⑥を変形した「銀行借入(Debt Finance)の増加額≡銀行の金融資産(投融資)の変動≡マネーストック変動(ΔM)」も同時に成立するので、これを合成した第五定理が得られる。

第五定理「借入(Debt Finance)による投資の場合、仮に投資の時点で貯蓄(S)がなくとも、投資(I')自体がそれと同額の貯蓄(S≒資本蓄積ΔK)と(固定資本減耗の金額を加算した)マネーストック(ΔM)とを生み出す」。

この第五定理は、複式簿記における会計恒等式(Accounting Identity)のロジックに基づき、SNAの勘定科目相互間の勘定連絡を表現したものであるから、常に必ず成立する。

これらをまとめると、借入(Debt Finance)による投資の場合、マネーストック増加(ΔM)→投資増加(ΔI')→国民所得増加(ΔY)→貯蓄増加(ΔS)→資本蓄積(ΔK)という流れこそが、「貨幣は重要である(Money matters.)の経路であることを数学的に証明できる。

投資乗数と貯蓄の発生メカニズムの関係

恒等式⑦-1及び⑦-2の持つ意味については、経済成長理論としても多くの重要な解釈が可能であるが、直感的にはやや理解しづらいかも知れない。そこでまず、以下のSNA上の投資乗数理論の数値例とそれに対応する仕訳例によってこれを証明する。

[事例]当初(第0段階)、消費(C)70+投資(I)30=国民所得(Y)100の状態から、第1段階で追加的な投資(ΔI)10を行った場合、第2段階以降の国民所得の増加(ΔY)の乗数効果は以下の通りである(数値例①)。なお、以下では限界消費性向(c)0.7と仮定していることから、いわゆる投資乗数は、1/(1-c)=1/(1-0.7)=1/0.3=3.33333…となる。

【数値例①】

限界消費性向(c=1-s)または限界貯蓄性向(s=1-c)は、ケインジアンの投資乗数[1/(1-c)=1/s]を決定する要因でもある。確かに、上記数値例①でも、第1段階での追加的な投資(ΔI)10に投資乗数3.33333…を乗じた国民所得の増加(ΔY)が第2段階以降で見られる。

しかし、ここで注目すべきは、この数値例①でも、各段階において『貯蓄(S)≡投資(I)』という恒等式(identity)が常に成立している点である。
まず、第1段階での追加的な投資(ΔI)10という取引を記録する複式仕訳は、以下の通りである。

(借方)追加的な投資支出(ΔI)10
(貸方)国民所得の増加(ΔY)10

そして、第1段階では、(貸方)国民所得の増加分(ΔY)10に対応する支出(所得の源泉)は、同額の(借方)追加的な投資支出(ΔI)10のみであるから、これと同額10が貯蓄の増加(ΔS)に振替えられる。具体的には、第1段階での国民所得の増加(ΔY)10の由来は、追加的な投資支出(ΔI)10を行った者から、これを売上10として受取った投資財供給者の所得(ΔY)10であって、その他に第1段階でその所得(ΔY)10から消費支出(ΔC)を行った者はいない (ΔC=0)。仮に何らかの消費支出(ΔC)を行った者がいたとすれば、それと同額で消費財供給者の所得(ΔY)が増加するはずであるから、第1段階での国民所得の増加(ΔY)は10を超えることとなる。従って、第1段階で追加的な投資支出(ΔI)10によって発生した所得(ΔY)10は、一切消費支出(ΔC=0)に充てられることなく、その全額が貯蓄の増加(ΔS)10となる。定義上、恒等式として「貯蓄(S)≡国民所得(Y)-消費(C)」が常に必ず成立し、かつ、増加した国民所得 (ΔY)10からは一切消費支出(ΔC=0)がなされない以上、同額で貯蓄の増加(ΔS)10に振替えられるのは、数学的にも当然の理である。

(借方)国民所得の増加(ΔY)10
(貸方)貯蓄の増加(ΔS)10

上記2つの仕訳をまとめると(貸借同額の勘定科目を相殺消去すると)、下記の仕訳が得られる。

(借方)追加的な投資支出(ΔI)10
(貸方)貯蓄の増加(ΔS)10

以上、厳密な複式簿記のロジックにより、恒等式⑦-1「投資による国民所得の変動(ΔY)≡貯蓄の変動(ΔS)」及び恒等式⑦-2「投資(純固定資本形成)の変動(ΔI')≡貯蓄の変動(ΔS)」が常に必ず成立することを証明した。

次に、第2段階以降では、限界的な国民所得の増加(ΔY)に限界消費性向(c)を乗じた消費支出の増加(ΔC)により、文字通り乗数的な国民所得の増大(ΔY)が見られる。しかし、これは本来、「消費」の乗数効果とも呼ぶべきものであって、「投資」乗数理論はその根本から見直されるべきである。
そこで、今度は当初(第0段階)より投資(I)は30で一定不変とする一方、第1段階で追加的な消費(ΔC)10がなされた場合の簡単な数値例②とそれに対応する仕訳例を示す。

【数値例②】

この数値例②では、当初(第0段階)以降、追加的な投資支出は一切行わず(ΔI=0)、他方、第1段階で追加的な消費支出(ΔC)10を行った結果、先の数値例①と全く同様、「投資」乗数(1/(1-c)=1/(1-0.7)=1/0.3)3.33333…を乗じた国民所得の増大(ΔY)が見られる。従来、「投資」の乗数効果と思われてきたものは、実際には「消費」の乗数効果であったことの証左である。

上記の数値例①及び②において共通するのは、第2段階以降の複式仕訳である。第2段階の仕訳を示すと、以下の通りである。

(借方)追加的な消費支出(ΔC)7
(貸方)国民所得の増加(ΔY)7

これを説明すると、第1段階で発生した国民所得の増加(ΔY)10が家計部門に分配されたと仮定した上で、第2段階でこれに限界消費性向(c)0.7を乗じた消費支出の増加(ΔC)7が発生し、それに伴って第2段階で更なる国民所得の増加(ΔY)7に繋がるということである。従って、第1段階における国民所得の増加(ΔY)の要因(複式仕訳でいえば、借方側)が投資の増加 (ΔI)であろうが、消費の増加(ΔC)であろうが、第2段階以降の乗数的な国民所得の増大(ΔY)には変わりがない。そして、第1段階での限界的な国民所得の増加(ΔY)に限界消費性向(c)を乗じた消費の増加(ΔC)が発生するのは、あくまでも第2段階以降である。

投資と貯蓄が相互に独立した要因によって決定され、均衡に達すると考えるケインジアンの「需給均衡条件式(方程式)モデル」においては、追加的な投資(ΔI)10による国民所得の乗数効果(ΔY)は、「ΔY=c×10+c^2×10+c^3×10+⋯=10⁄((1-c))」というプロセスを経て発生すると想定されている。確かにこれは数値例①及び②の第2段階以降の数値と一致する。

しかし、数学的に問題となるのは、同プロセスに対応する貯蓄の発生メカニズムである。需給均衡条件式(方程式)モデルにおいては、上記乗数プロセスに対応して「ΔS=(1-c)×10+(1-c)c×10+(1-c) c^2×10+⋯=10」という貯蓄の発生メカニズムが想定されている。これは、数値例①の第2段階以降で貯蓄(ΔS)が徐々に増えていき、最終的に極値として第1段階での追加的な投資(ΔI)10に等しくなることを意味する。しかし、数値例①の場合、その第1段階で『貯蓄(S)≡国民所得(Y)-消費(C)』及び『貯蓄(S)≡投資(I)』に従い、追加的な投資(ΔI)10と同額で貯蓄の増加(ΔS)10が発生している以上、需給均衡条件式(方程式)モデルで数値例①の第2段階以降に発生するとされる貯蓄(ΔS)10は二重計上となる。他方、数値例②の場合、追加的な投資(ΔI=0)は一切なされていないにもかかわらず、貯蓄(S)のみが10増加することになる。いずれも数学的な間違いは明らかである。

もう一つのアプローチとして、ケインズの「一般理論」の上記①②③式から、直接同様の結論を導くことも可能である。借入(Debt finance)による投資の場合、投資主体に投資(I)支出時にそれに見合う貯蓄(S)がなくとも、借入(Debt finance)によって調達したマネーストック(ΔM)を財源として追加的な投資(ΔI)支出を行うことができる。従って、「一般理論」の上記①②③式は、次のように変換できる。

①’式 Y+ΔY(=ΔI)= C+(I+ΔI)
②’式 S+ΔS(=ΔI)= Y+ΔY(=ΔI)-C
③’式 ∴ ΔY=ΔS=ΔI

なお、上記③’式は、恒等式⑦-1及び⑦-2と全く等値である。

そして、上記③式「S=I」及び③'式「ΔY=ΔS=ΔI」から等式「S+ΔS=I+ΔI」が得られる。等式「S+ΔS=I+ΔI」から直接的に解釈できるのは、貯蓄(SまたはS+ΔS)の金額の決定要因(determinant)は、あくまでも投資(I)及び追加的な投資(ΔI)だということである。言い換えれば、会計恒等式(accounting identity)の観点からは、消費(C)の金額がどうあれ、貯蓄(SまたはS+ΔS)の金額を決定するのは、あくまでも投資(IまたはI+ΔI)であることが結論付けられる。

投資による国民所得増加(ΔY)の限界貯蓄性向一定(s=1)の法則

恒等式⑦-1「投資による国民所得の変動(ΔY)≡貯蓄の変動(ΔS)」から解釈できるのは、追加的な「投資(純固定資本形成)の増加(ΔI')」によって発生する限界的な「国民所得の増加(ΔY)」は、これと同額で「貯蓄の増加(ΔS)」をもたらすという点である。

従って、投資による国民所得の増加(ΔY)の場合、その限界的な国民所得の増加(ΔY)に対する限界貯蓄性向(s)は1で一定(s=1)となることから、本稿では、この命題を「投資による国民所得増加(ΔY)の限界貯蓄性向一定(s=1)の法則」と名付ける。

その結果、恒等式⑦-1「投資による国民所得の変動(ΔY)≡貯蓄の変動(ΔS)」に基づき、「投資による国民所得増加(ΔY)の限界貯蓄性向一定(s=1)」が常に必ず成立する以上、1/sを投資乗数とする国民所得(Y)の(1を超える)乗数効果は存在しないことが導かれる。

投資(純固定資本形成)の変動(ΔI')≡貯蓄の変動(ΔS)

次に、恒等式⑦-2「投資(純固定資本形成)の変動(ΔI')≡貯蓄の変動(ΔS)」の意味するところは、借入(Debt Finance)による投資の場合または貯蓄(≒資本)(Equity Finance)による投資の場合のいずれかを問わず、投資(ΔI':純固定資本形成)の変動額と同額で貯蓄(ΔS)が変動するという、厳密な複式簿記における会計恒等式(Accounting Identity)のロジックである。

一般的には、ケインズの②式「S=Y-C」に従い、倹約により消費(C)を減らさなければ、貯蓄(S)は増加しないという直感的な推論が働くのは人間の本性ともいえる。例えば、戦時中の標語としても有名な「欲しがりません、勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」といった倹約を勧め、貯蓄増加による供給側(supply side)の生産力の増加を図ろうとする政策も実際に行われたのも事実である。また、戦後日本の高度成長の要因分析としても、勤勉な国民性に加え、高い貯蓄率(平均貯蓄性向:APS)が挙げられることが多い。

しかし、基本的な恒等式である国民所得(Y)≡消費(C)+貯蓄(S)に従えば、仮に倹約により消費(ΔC)を削減したとしても、それと同額で国民所得(ΔY)が減少することから、貯蓄(S)自体は不変である。なぜなら消費(ΔC)を削減すれば、ΔC分、総需要が減少し、消費財の売手(供給側)の国民所得(Y)もΔC分、減少するからである。従って、国民所得(Y)≡消費(C)+貯蓄(S)との恒等式が、国民所得(Y−ΔC)≡消費(C−ΔC)+貯蓄(S)と縮小・変形されるだけであり、貯蓄(S)自体は不変である。論理的に考えれば自明のことであるのに、人間の思考の枠を狭める旧来のパラダイムの恐ろしい点である。

実際には、前節の③'式「ΔY=ΔS=ΔI」とそこから導かれる等式「S+ΔS=I+ΔI」を平均貯蓄性向(APS)の公式に適用すれば、「S=I<Y」であるから、追加的な投資(ΔI)が増加すればするほど、平均貯蓄性向(APS: average propensity to save)もまた、下記の数式に従い、上昇していくことがわかる。

$$
\text{平均貯蓄性向(APS)}=\frac{S+\Delta{S}}{Y+\Delta{Y}}=\frac{I+\Delta{I}}{Y+\Delta{I}}
$$

ここで一つの実証データを示す。図表6は、世界銀行のデータバンクからダウンロードした日本と中国の対GDP粗貯蓄率と粗投資率(1970年-2016年)をグラフ化したものである。1980年代までは両国の粗貯蓄率、粗投資率は共に30%から40%という比較的高い水準にあった。1990年代以降、日本の粗貯蓄率と粗投資率は相関関係を維持しつつ、共に20%台前半にまで低下した。他方、中国は2000年代以降、粗貯蓄率と粗投資率は相関関係を維持しつつ、共に急速に上昇した。特に、リーマン・ショックを契機とする世界金融危機後、中国政府は年間で実質8%成長を維持する「保八」を合言葉として、2008年11月に4兆元(当時の為替レートで57兆円)もの公共投資を実施した。その結果、ピーク時の2010年には中国の対GDP粗貯蓄率51.8%、粗投資率47.6%という驚異的な数字を記録した。

2010年代以降、訪日した中国人観光客が「爆買い」する様子は記憶に新しい。2000年代以降、中国人民がリーマン・ショックを契機として限界消費性向(c)を抑えて倹約に励み、限界貯蓄性向(s=1-c)を国民所得(Y)の50%以上にまで上昇させたとは常識的には考え難い。むしろ既述の第四定理「投資(I')自体がそれと同額の貯蓄(S≒資本蓄積ΔK)を生み出す」ことが実証データとして確認されたものと解釈すべきと考える。


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