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天正遣欧少年使節の足跡をたどって No.4

次。そのあと。

今度これはですね、これはコーチンですね。コーチンは、昔も今も変わっていないように思いますけども、紀元前500年からの大国際港だったところ。
ここで発掘調査している友達がいるんですけど、ここから46の違う文化が発掘されている。ということで、ポルトガルも、それがもう情報として知っていたから、コーチンというのは、もうそこに行ったら、いろんな商売になるものがあるっていうことを分かっていて行ったという風に思います。

で、ここも胡椒ね、胡椒の産地ですね。で、えっと胡椒は、胡椒だけじゃない、まぁ特に胡椒は、ヨーロッパではもう既に手に入っていた。
どうして入っていたかというと、ペルシャを通ってベニスから入っていた。或いはアラビア半島から陸路で入っていた。

でこれを牛耳っていたのはトマスの教会と言われるSyro MalabarlあるいはSyro Malancalaとか、あのYaakubusって言いますけど。インドには1世紀からキリスト教徒がいます。で、その人たちはシリア典礼でアンティオキアの総司教座の下にいた人達。で、その人たちがもう牛耳っていたので、ポルトガルは、それをなんとか奪ってやろうと思って、海に出てその土地からとるようにした。陸路よりは、船の方がたくさん運べることは確かですね。なので それの取り合いをする。最初はそのSyro Malabar典礼の人たちといい関係があった。でも、最初、ポルトガルの宣教師たちはびっくりしたんですね。これは、イエズス会じゃないです。最初に入ったのはアウグスチノ会とドミニコ会なんですけど1499年にもうすでに宣教師が入っている。で、1500年にはもう教会、まぁ、ちっちゃなチャペルができている。で、その時になんか、なんかキリスト教に似たような儀式をやっている奴らがいっぱいいるっていうのをこの見て、これは誰だと思ってよく話してみたらば、それがクリスチャンだって分かって、最初は友好的だったんだけども、そのうちに、あなたたちは異端だと、異端だからローマ教皇を認めろと強制するんです。で、それで嫌だと思った人と、しょうがなくて認めた人と、今、分裂して別のものになっていて、認めた方がSyro Malabar典礼というのになっていて、認めてない方はヤコブ教会と言っています。

で、ここにですね、やっぱまたサン・フランシスコですね、フランシスコ教会ってのがあって、これはフランシスコ=ザビエルが来たからではなくて、その前からのフランシスコ教会です。ということはアッシジのフランシスコのフランシスコです。
で、ここに何があるかというと、今もう遺体はないんですけども、ヴァスコ・ダ・ガマのお墓がここにあった。ヴァスコ・ダ・ガマは、ここで亡くなっている。
 で、これがヴァスコ・ダ・ガマ。ヴァスコ・ダ・ガマは、インドを航路を作った人です。リスボンからモザンビークに行って、モザンビークでインド人に会って、インド人と一緒にインドに入った。そして インド航路を作った人。

もうすごく新鮮な魚がいっぱいあるところ。
で、ポルトガル風の街がまだ残っています。
 
この方はMatthew先生って、今のSyro Malabar典礼の神父さんで、学者です。で、これもう16世紀のことをずっと調べている人で、この本を見せてもらって「あんた1週間居ていいから全部読みなさい」って。これ、全部ポルトガル語なので、私にはすっごい時間かかる。でも、まあ、でもここに何日居たか、3日ぐらい居て、文献をこうあさりました。

ここには、” Documenta Indica”という本があって、イエズス会士たちが各宣教師とのやり取りをした手紙、それが全部合本されていて、ここに残っている。で、そしてモダン、モダンと言っても1950年代ですけど、その現代語のポルトガル語に訳していて、それで出来ている。

で、” Documenta Indica”。これ全部年号が入っているから、少年使節達がいた時のだけ、こうあさって そのイエズス会の手紙で日本から来ているものがあるかどうかとか、そういうのをちょっとチェックしています。で、こんなのがあって。この管区長からの手紙、Padre Provincialってね、日本からのって書いてある。


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