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天正遣欧少年使節の足跡をたどって No.1 

Intro

 今日は、どういう風にこう動いて帰って来たかを、簡単にスライドでご覧に入れたいと思います。
 文献的には、少年使節が、今、お祈りで言ったように、1582年の2月20日に出発を長崎から出発して、帰ってきたのは1590年の6月28日にまた帰ってくるんですけれども、その間にいろんなことがあったとは思うけども、1番大事なことは、多分、カトリック教会が危機だった。カトリック教会が、宗教革命でプロテスタントにどんどん人が取られていっていた。
 で、このまま行くと、カトリック教会は救われないので、プロテスタントに対してのプロパガンダとして、少年使節が1番遠いところから来る。というのは日本。でも、それ以外にもインドにもちっちゃな国がいっぱいあって、そこからも少年使節は送っていたんですね。でも1番遠いのは日本だったから。日本からということは、「東方から、そして3人の賢者が、新しきニュースを持ってくる」っていうイメージ。
 でも、大航海時代っていうのは大体1つの船に600人ぐらい乗って、1年、2年、3年経って 本国に帰れた人は1/3ぐらいだったんですね。ということは、どんどん亡くなるので スペアとして4人にしていた。そしてそれで4人をそうやってくっつけた。出身とかそういったことは、後であの写真で覧に入れます。それが1つ。
 プロパガンダにとしてプロテスタントの人たちに、「カトリック教会はこれだけ素晴らしい。人をその改宗させて、そしてカトリックにした」っていうことを伝えて、「あなたたちにはそれはできないだろう」っていう風にするのが1つ。
 もう1つはこの4人の少年使節は、イエズス会のヴァリニャーノという神父、この方はポルトガル人じゃなくてイタリア人ですけども彼がどうしてもそれをやりたかった。なんでかと言うと、ご存知のようにドミニコ会はすごく古くからある。フランシスコ会もアシジのフランシスコだから13世紀にある。イエズス会ができたの は1534年なんですよ。すごい出遅れてる。
 そしてプラス大航海でも出遅れた。ので、今度はイエズス会としては「イエズス会の実績はこんなにすごいぞ」と「フランシスコ会ドミニコ会アウグスチノ会よりずっとよくやっている」と。「よくやってる」という意味は、王様たちを狙って改宗していくっていうやり方をしていた。
 まさに日本の戦国時代はそうだったんですよね。だから、織田信長とかそういう上の方。上の方をこう改宗するようにもっていく宣教をしていて、それを教皇に見せて、そしてバチカンからお金を取ろうということが2つ目の狙いだった。
 それとあと大事なこと、2つぐらいあるんですけど。ご存知のコロンブスがアメリカを発見して、キューバに行ったりとかそうやって帰ってきた。それが1492年。で、1492年に行った後、ポルトガルとスペインは、じゃあって言って、いちにのさんで外に出ようとした。
 それだけれど、世界中でぶつかり合わないように、トルデシリャス条約というのを、2年後1494年に結ぶんですね。それで、これはご存知かもしれませんけれども、東の方はポルトガル西の方はスペイン。で、それは、教皇もそれを認める。
 なので、それで、いちにのさんで右と左に分れていくんですけども、向こう側、地球が丸いことはもう分かっているんだけど、 向こう側の線を引いてなかった。それで、今度それを引くっていうことがあって、1529年、サラゴザ条約というのを結んで、こう向こう側、っていうことは、アジアの側の線を引くっていう。
 ただし例外はフィリピン。フィリピンはその前に、東側だったけれども、もうスペインをとっていたので、マゼランを取っていたので、それはもういいでしょうと、ポルトガルのほうに返すなっていうことになった。
 ブラジルがそういう意味で言うと、その戦場だったんで、ブラジルはポルトガルに入った。で、あとはスペインになった。そういう前置きがあります。
 では始めます。

4人の少年使節団

 これはあの我々の本のタイトルが多分こうなるっていうんで伊藤先生がこういう名前にしていますけども。

伊東マンショ

 こういうような状況の中で、4人の名前、皆さんご存じかもしれませんけど。「主席正使」って、正しい、使える、「主席正使」って、そのリーダー、トップは伊東マンショですね。
 伊東マンショさんは大友宗麟(大友義鎮)の血縁だった。
 大友って、非常に大きい。大友って元々厚木だったんですけどね。厚木から鎌倉時代、向こうに移るんですけども、あの当時非常に大きかった。で、大友宗麟は、フランシスコザビエルも受け入れています。で、宣教の許可もいます。
 最初、あの毛利の前に山口には大内氏というのがあって、大内西の京、大内にザビエルが行くんですけども、宣教の許可がもらえない。
 そしたら大友宗麟は、「これはいいチャンス」とポルトガルから銃をもらう、商売するのに1番いいやろうって言って、大友宗麟がまず受けた。
 府内、今の大分の大友宗麟の居城だったところ、今、発掘調査していますけれども、いろんなものが出てきた。今年になって私、見に行ってきましたけど、結構面白いものが出てきている。

千々石ミゲル

 で、次は千々石ミゲル。千々石ミゲルも正使、っていって、正しい、使える。
 で、この人は大村。純忠の甥っ子です。純忠の甥っ子が有馬だから、有馬の甥っ子のいとこ。甥っ子のいとこですね。
 で、この辺はですね、あの辺、肥前、肥前と言いますけども、有馬とか大村とか、小ちゃな大名で、今で言う佐賀とか長崎の辺ですね。
 で、そこにはですね、松浦藩っていうのがあって、あれ水軍だったんですけども、平戸中心にした松浦と大村っていうのは、かなりこうやり合っていたんだけども、大村藩の水軍があった。 

中浦ジュリアン

 それが中浦と言う。それは中浦ジュリアン。中浦ジュリアンは3人目で、それは副使といってましたけども。その中浦ジュリアンがいたのが五島列島だった。五島列島で、まだそれが大村の家来だった。中浦城主だったからね。

原マルチノ

 もう1人は、やっぱり副使で、原マルチノ。原マルチノも大村領のお城の1つの、あのなんていうか城主。城主だった人ですね、原中務(はら・なかつかさ)さん。原中務さんっていう人が
お父さんですけれども、これは家来ですね。
 ま、そういう中で全員4人とも幼児洗礼です。

 長崎


有馬・島原・口之巣

 で、ですね、この4人はですね、まずイエズス会のどこであるかというと、もちろんBornカトリックですけれども、有馬のセミナリオで出会うんですね。で、有馬のセミナリオは今この辺だったというところが分かっていますけれども、島原ですね。島原の向こう側は、今度、天草ですけども。彼ら帰ってきた後神父になるための養成を千々石ミゲル以外はするんです。
それでイエス会の神父になるのは、今度は、天草です。行きがここの島原。
  で、これだけですねキリシタン大名が、かなりいた時代ですね。学者によって人数違うんだけども。
 フランシスコ・ザビエルが来てから、フランシスコ・ザビエルの弟子、から、その次の弟子まで3世代の宣教師の間に、日本の人口の70万人がカトリックの信者になっていたって言われている。で、当時の人口は3000万人だったので、これはすごい脅威だったというふうに思います。

ヴァリニャーノ神父

 で、ですね、口之巣。口之巣は何で写真があるかというと、このヴァリニャーノという神父さんは、口之巣のから日本に上陸したんです。そして、ポルトガル人の中にあってイタリア人だったけどもローマとの関係がすごかったから、力があった。
 後で話すことになるけれども、彼は一緒に4人と一緒に行くんですけどゴアに着いた時に、ローマのイエス会の本部から「アジア全体の管区長になってください」という任命書が届いていて。なので 彼は泣く泣く、彼らと一緒にヨーロッパ行きたかったんだけども、行けないで、ずっと待っていたということになります。
 これがヴァリニャーノさんですね。
  出発したのは、普通に長崎の波止場から出ていきました。長崎のこの波止場というのは、今、出島の周りが全部埋め立てられていて、出島よりもちょっと 海側のところに、こういう碑が立っています。

ナオ船

 で、こういうこの頃の船はナオ(Nao:スペイン語)船と言っていた。ナオっていう名前の形の船だった。そして長崎から、まずマカオへ行くんですけれども、もう1つ申し上げとかなきゃいけないのは、種ヶ島に鉄砲伝来の時、昔はポルトガル船と言っていたけども、あれはポルトガル船じゃなくて、倭寇の中国船だったってことは、もう今歴史で、こう変わって、わかっているけれども、あの時に乗って来たポルトガル人もそうだし、フランシスコ・ザビエルが来た時のポルトガルの船も、あれはポルトガルの王立のライセンスをもらっている船ではないんです。ポルトガルのライセンスは、国王から出されるライセンスがないと正式な貿易の船としてはいけない。それを持ってないと海賊の船になっちゃうの。でも、その船はどこまで行けるかっていうとゴアまでしか行けなかった。で、ゴアからまた向こうに定期行路で帰っていくしかなかった。で、ゴアのすぐ南に、すぐと言ってもやっぱりインドだから広いので500kmぐらい南なんですけれども、そこにコーチンというところがあって、で、コーチンは胡椒の産地なんだ。そこにポルトガル人は目をつけて、そこに入るようになるんですけども、コーチンの周りの森というのはすごくいい木があったので、コーチンで造った船が全部アジアに来ていたんです。だからポルトガルで造った船ではないんですね。で、そういう船で来ているのでライセンスを持っていないです。

ミゼリコルディア

 あ、そして、もう1個覚えておいていただくといいかな、と思うのは、ミゼリコルディアというグループ があった。「憐み」という意味。ミゼリコルディアっていうグループ。これは信徒のグループで、法律をよく勉強した人と医学を勉強した人の信徒のグループ。で、各ポルトガルの植民地の港に必ず事務所を置いて、小さなクリニックをやっていた。
ります。長崎にも ミゼリコルディアの址があります。
 で、この人たちは何をしていたかというと、この貿易省たち、貿易省たちの多くは、家族はポルトガルに置いている。そういう人たちは財産がたくさんあって死ぬんです。そうするとミゼリコルディアが全部それを受けてチャリティに使う。と、同時に家族に送金をするとか、そういうことをしている。
 同時にもっとすごいのは、どこのミゼリコルディアでも、ちゃんと小切手を発行できた。で、小切手を発行して、ミゼリコルディアのスタンプとサインがあると、例えばゴアで、それをお金を払って小切手をもらうと、現金を持たないで長崎に行ってお金が取れた。
 そのすごいシステムが出来ていて、それがミゼリコルディアっていうんですけども、元々なんで出来たかっていうと、そういう船乗り達、船長達の財産のその分配と送金のために、それが出来たという風に言われています。
あ、じゃあ、さっきのあの船の話ですけども、通行証を持っていたものを、カルタス、カルタスを持って。カルタですね、carta。カルテでも同じ。カルタスを持っている船が王立の船、カルタスを持ってない船は、ま、個人の船っていうふうに、まぁ、チャーター便みたいな感じ。
なので、少年達は、このチャーター便に乗って行ったということですね。



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