見出し画像

天正遣欧少年使節の足跡をたどって No.2

 マカオ

 
 マカオ。

 マカオは、元々、フランシスコ・ザビエルが亡くなったのはShangchuan(上川)っていう島ですけれど、 Shangchuanにイエズス会が入り始めて、すごい真面目な神父さん達が入ってくると、それこそ船員たちは居づらくなってきた、いろんなことで批判された、酒飲みすぎだとか女性なんかしてるとか結婚してないのに何やっていんだとかって、で、うるさいので船員たちが他にもっといい所ないかって探したのがマカオなんですね。でも、その後イエズス会もまた来てしまったんですけど。

 で、今のマカオ。これは、私がいる方がマカオで、向こうが中国ですね。もうマカオと一緒にガンガン発展しているので。

 で、これがですね、横浜にもありますけど媽祖廟って言って。媽祖、媽祖は中国の女神様で、海の神様ね。で、マカオにもその媽祖があって、媽祖からマカオになっている。で、ここの当時も港はここの近くにあって、でもここはちょっと浅いので、沖に錨を下ろして小舟でここまで来た。なので、この少年たちも小舟で、最初の外国は、このマカオの媽祖廟のところに行ったということです。

 そして、ここからですね。これ山をぐっと上がっていくと、そうだな僕の足で20分ぐらいかかりますけども、上がっていくと、これ、今はサン・アントニオ教会って言っていますけども、当時はイエズス会のレジデンスだった。なので、彼らはまずここに泊まったということになります。彼らはどのくらい泊まったかな、ちょっとよく覚えてないけど、2ヶ月ぐらい泊まったような気がする。で、その頃十字架の道行きが流行っていたみたいで、道に大きな十字架がいっぱいあって、当時の少年たちも見ている十字架が、この教会の敷地の中に残っている。でこれ今はこの全然違う信徒館になっているところに、元イエズス会のレジデンスがあった。

  そしてですね、この教会の裏側がですね、Jardim De Luis De Camoes。で、あの漢字もそのままです。白鳩の巣の公園って書いて。で、ここはイエズス会のものだった。

 で、この次の写真も、この辺もイエズス会のものだった。で、これ何をしていたところかと言うと、文献によると、イエズス会士は、宣教しないで鳩の世話ばっかりしていた。で、その書いた人はフランス人のイエズス会士で、その後、頭にきてやめて、パリミッション作ったんです。アレキサンドルス(Alexandre de Rhodes)っていう人ですけども。なんで鳩を飼っていたかというと、日本にも鳩をいっぱい持って行っています。で、禁教令が出た後もすごい密かに鳩が鳴くから大変だったと思うし、餌も大変だったと思うけど、これは通信手段だった。通信は、もう鳩でしかできなかった。そうすると、今度命がけで、例えば長崎とかベトナムに入れて、そこで孵化させて、今度それは外国から今度日本に帰す時の鳩になるから、必死でイエズス会はあの頭脳を使って、鳩をどうやったら賢い鳩を育てられるかをやる方が、マカオで宣教するより大事だと思っていたと。実際そうだったと思います。1番遠いので文献が残っているのは、マカオから今でいうハノイまでで、飛んでいる、飛んだっていうのがある。それはやっぱり、1000km以上飛んでいますよね。

 これは、マカオの一番上のとこにある砦ですけれども。Guia Fortress de Macau。これ、ここから、こうマカオを見て、今、橋で香港まで繋がっていますけども、少年たちも、ここから自分たちが乗った船を見ただろうと思うんですけど。

 ここに小さなチャペルがあって、Capelaって言っていますけど、ここの中にですね、このちょうど少年達がいた頃、1580年代の絵が今も残っている。  皆さんが思う教会って、バロックだったり、そのロマネスクのすごいキンキラだったりするようなイメージ、あといろんな色が入っている。でも16世紀の教会の壁画というのは、この程度のものだったということが分かります。で、まぁ、色はもうちょっと、ちょっとあせているから分からないけれども。あの赤いところはね、やっぱ金があったところは赤く残りますから、金色に色がのっていたとは思いますけれども、そんなに派手ではなかった。

 これがマカオの中で今残っている少年使節よりも10年ぐらい後のものですけれども、1番よく残っている教会の中の雰囲気ということで。ま、これ、皆さん行かれたらいいと思いますけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?