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天正遣欧少年使節の足跡をたどって No.3

マラッカ

次、その後マカオからマラッカ。

 マラッカは、まぁ、場所分かりますよね、マレー半島の真ん中辺ですけれど。ここも 同じです。今、ここを見ているところが、マラッカの中心地で、左側は川があって、今チャイナタウンになっている。なので、ここもやっぱり浅瀬だから、少し沖に泊めて、小舟でこう入っていたと思いますけど。 多分、今のボートがいるところの右側、ちょっとあの砲台跡があるんですけれども。彼らはが着いたのは、これ分かるか、ここに砲台跡があるんですけど、多分この辺に上陸したと思います。

 で、これは今向こう側、チャイナタウンを見ているけれど。で、これを大きく見ると、マラッカ海峡っていうのは非常に流れが強いけれども、細いところ。で、お天気がいいと、向こう側スマトラまで見えるようなところですけれども。ここでは、少年たちが、このいっぱい漁師が漁をしているのを、こう船で通りながら、見ながら、本当にあんな貧しい舟に乗っていて、それで雨もしのげないような舟の中で、でも漁師達がたくさんの魚を取るんだっていうことに驚いたっていうことが載っているところです。

 で、ここはですね、左側にあるのは、フランシスコ・ザビエルの銅像ですけれども。

 これ、サン・パウロ教会って言ってフランシスコ・ザビエルがいた時に見ていた教会です。なので、少年たちも当然見ているんですけども、これは今、廃墟となっている。廃墟となっていている理由は、コーチンもそうだしモザンビークもそうだけど、モザンビークは多少です、プロテスタントとカトリックの戦いは海外でもやっていた。ので、ポルトガル、スペイン の町をオランダが攻めていた。で、占拠すると、カトリックのものは全部、いわゆるぶっ壊した。全部壊した。御像から教会まで。
 そういうことで、この聖パトリック教会は壊れているんですけど、中を見るといろんな碑があって、今ご覧になっているのは、全部オランダ語で書いてあるものですけれど。これね、全部オランダ語なんですけども、2枚だけラテン語で書いてあるものがある。
 これはポルトガル時代のものが、2枚だけ、ここに残っていて、これはですね、これ’IAPONENSIS’ってわかりますか。'OBIITAD’、日本の司教、が、全部やると長いので、意味は、「日本の司教に任命されたペトルスという人は、’SOCIETATISIESV’だから、イエズス会のペトロという人が、日本の司教に任命されたんだけれども、シンガポール沖で亡くなったので、ここに埋葬しましたというものですね。そういうのがある。
  で、この教会のすぐ横にこのイエズス会のレジデンスがあったので、ここに4人は泊まった。ここはですね、古いものがいっぱいあって、そこの学者に言われて「昨日雨降ったからさ、TAKAさん、朝、行ってみたらいいよ」と言って、「何ですか?」って行ったらね、雨でこう少しずつ流されると、そこから16世紀の陶器の欠片が出てくるんですね。でね、私も朝行ったらね、結構、2、3枚取れたので、次の日、またまた、また取ってきて、結構ある。けど、大体が、ま、ね、中国の陶器だと思います。で、今は、ここに、新しく、こういう塔が立って、このフランシスコ・ザビエルの像が立っていますけども。

 で、ここはですね、その丘からすぐ目の前で、前はここは海だったところ、今、埋め立てていますけども。で、ここに岩があって、その岩のところで引き潮になると岩が出るので、フランシスコ=ザビエルがここで祈っていたっていうことなんですけど、今は、マレーシアはイスラム教だから、もう全然これはほったらかしになって、ここゴミ捨て場だと思っている人がいて、いっぱい缶カラとかなんか捨てられていて、でもそれを手入れすることができないし、カトリック教会はここを触る許可がもらえないから、そのままになっている。

でも、ここで、これは誰でしょうね。(原マルチノ?の声)違う。原マルチノはもっと若い。これ、一応これ、ザビエルのつもり。ザビエルのつもりで、これはあのヤジローです。ヤジロー、「最初のカトリック教徒。日本人のクリスチャン」と言われている。伊集院という、鹿児島の場所の出身で、マラッカでこのフランシスコ=ザビエルにあったと言われていますけれども。で、非常にまともな人だとね、ザビエルが勉強した方がいいと言って、ゴアに行って、ゴアの神学校に2年行って、そこで洗礼を受けるんですけども。でもね、私は、思う、これ自説ですけども、普通の本では、この人は「殺人事件を起こしたので、逃げなきゃいけなかったから、ポルトガル戦に乗ってマラッカにたどり着いた」と言っているけども、どう考えてもコミュニケーションをポルトガル語でとっている。だから、インテリだったということで、ただの漁師だったとはちょっと思えないので、多分、薩摩藩が、もうすでに情報収集のために出していた人じゃないかなって。だから鹿児島に彼は付いたという風に私は思ったんです。

 で、ここには、ポルトガル系のマラッカ人が沢山まだ居て、たくさんと言っても5000人ぐらいですけども。で、ポルトガルのレストランなんかもあった。ただ、でも、ポルトガルの本当の本国のものとはちょっと違って、もうなんというかマレー化している。

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