乱文
最近ワードを与えられたときの生産性のない会話が得意だということに気付いたので文章をなんかのために残してみたいと思った。別に残したからと言って何かがある訳ではないんですけどね。
というか乱文というタイトルである以上、誤字、脱字、衍字、その他文体の崩れとかがあっても許してほしい。
そういえば「衍字」はよくクイズで答えになる。というかクイズで聞くまでは「誤字・脱字」の存在しか知らなかった。
確かに、衍字という存在は文章をアナログで書いてる時には起こりにくい現象だ。デジタルになったから生まれた概念であるともいえるのかもしれない。裏付けされるデータがある訳では無いが。
「衍字」以外に「衍」の字を見ることがないなと思い、「衍」を検索してみた。そうすると「蔓衍(まんえん)」という蔓延と全く同じ意味の言葉で使われることが分かった。
世の中には思ったより特定の場面でしか一般の人は目にしない漢字があるのかもしれない。昭和の「昭」、汽車の「汽」、ちょっと難しいところだと玉璽の「璽」。というか昭和の昭に関しては現代日本で生きるにおいて「昭和」と人名でしか一般的には使われないのに小学校低学年で習うというありさまだ。
そういえばちょっと前に学習指導要領が変わって都道府県の漢字が全て小学校で習うことになった。都道府県の漢字は確かに読めたほうがいい。「岐阜」のような岐阜でしか基本見ないような漢字もあるが、そのためだけに覚える必要性があるのは確かだ。
そういう意味では前述した「昭」や「汽」も昔は覚える必要があったから追加された可能性は否定できない。特に調べてもいないけど。ただ、「玉璽」に関してはそろそろ義務教育の範疇から外してはどうかと思う。なんだあの玉璽でしか見ないし玉璽も基本使わないような義務教育終了後にすぐ忘れても問題ないような漢字は。
よくよく見たら「玉璽」は「雨雲」のように1文字目が2文字目に包含されているタイプの漢字だ。パッと考えた感じ「一」や「人」とかを除いたらこんなものしか思いつかない。
今度ピーコロンでどれくらい集まるか聞いて見てもいいのかもしれない。
最近はTwitterも使うがdiscordを使う時間が増えてきているのかもしれない。前述したピーコロンもその例だ。なんやかんや言葉遊びは好きだったしその欲が満たされるという意味でよく使っている。
こんな感じで一枚謎界隈ももしかしたらいつかはTwitterに変わる別の媒体に移行する可能性は否めない。まあ、その波に乗り遅れたら定期的な一枚謎をいったん終了してもいいかもしれない。2年くらい続けて思ったのは、やはり毎日続けていると制作力は上がるという当然のことだ。他の人より成長具合は弱いかもしれないが、悪くはないデザインはできるようになったと自分で感じている。まあ、厳密には毎日作っているのではなく、作りだめをしたり、定期謎以外の謎を作ったりと変動的な制作ではあるが。
制作といえば、自主的に立候補して参加したタワラッシュが東京タワーで開催される。本人は数えられるくらいしか東京タワーに行けていない。直近で行ったのも約1年前に好きなグループのイベントの謎解きのためにいったくらいだ。そう考えると自分の創作物が第三者の手を借りながらも大きい場に行くというところは成長と言えるのかもしれない。
前回東京タワーに行った時は既にRED°があったためちょっとしたアトラクションでも遊んだ。VRやら体を使うアトラクションやら思ったよりも楽しめ、全部を満喫しようとしたら1日あっても足りないくらいだった。昔は東京タワーは手軽に行ける展望台のようなイメージだったと思われる。そんな中で知らないうちにこんな変化を遂げてたのは少し驚いた。
自分が地方住みということもあってやはり東京への解像度は低い。というか最近考えたことであるが、本州の最北端である青森や九州の本土の最南端である鹿児島などの周辺地域はどう考えても交通の便が悪すぎるでのはないか。
好きな実況者グループであるワイテルズが新作長編「花龍列車」の発表と同時にそれに関するコラボカフェの開催も発表した。その際にどう考えても北海道の僻地と青森秋田岩手北部や宮崎鹿児島沖縄はちょっと旅行しないといけない位置にコラボカフェが開催されるのである。当然と言えば当然なのかもしれないが、娯楽に対する格差を常日頃感じないといけなく少し悲しい気持ちになる。
持論として東北地方に住んでない人は東北の長さをなめている節があるのではと最近思う。青森市から仙台市までの距離と言うのは、東京から名古山までの距離とほぼ同じである。岩手のデカさをなめている人が一定数いてもおかしくはないだろうか?とふと思う時がある。
それで言うと思ったより九州もデカい。ただ、鹿児島から福岡というと少し遠いなという気分はある。異論は認める。
ここまで書いて思ったがもしかしたら変なことを書いている、もしくは書くかもしれない。こういう時に公開設定を返金アリの有料にするのはどうなんだろう。個人的にそれをされるとお金を払う手段がない以上それ以上は読めないとあきらめることも多々あるし、こんな奴の駄文を読むためだけにお金を払う人がいるとは考え難い。
ただ、もし今後何かのはずみで炎上した際にこの中のどれかの文章を持ち出され、不利な展開になるかも……ならないか。ただこの文章にどれくらいの文章価値があるのかは気になる。ちゃんと読んだ人はどれくらいいるのだろうか、それだけでも気になる。
ちゃんと作者が求めてる行為を行った人という点では最近謎解きの解説を載せるかどうかについて少し考えてる節がある。定期謎を出している間は実現が難しいが、もし今後自分がSNSを辞めたい際に正誤判定ができないと困る人が一定数居てもおかしくはない。その際にどのようにして正誤判定をするのかは悩みどころとなってしまう。そのために軽く解説や答えを乗せた何かを用意するのはありなのかもしれない。
というかSNSのフォロワーもいつの間にか800を越している。最近はフォロワー数というものをあまり気にしなくなっている、もっといえば謎解きの反応は思ったより伸びた時と引用以外はあまり気にしてないのかもしれない。
引用はとても嬉しい、否定的でないとより嬉しい。
SNSといえば最近フルーウアカウントでのツイートが減っていると思う。確かに別アカウントの存在も少しはあるのかもしれないが、discordの存在が大きいと思う。他界隈というか謎クラを始める前からいた界隈で結構仲良くやらせてもらってるのもあって最近はdiscordを多用している。
そういえばdiscordでいろいろな制作を進めているが中には忙しくて案だけ聞いて軽いお流れになっているものがいくつかあるような気がしてきた。本当に申し訳ない、この文を読んでいるのであれば何かアクションを起こしてくれるとこっちも本腰を入れやすくて助かる。勝手なお願いだけど。
discordの影響で「アクアリウムは踊らない」をクリアしたり「まいまいごえん」をかじったりと世の中のフリゲーというものに少し触れるようになった。それらのゲームはとても面白いと感じてはいるし、アクアリウムは踊らないに関しては結構頭を使うフェーズもあり"知"的な面での面白いを感じれた。
「面白い」を最近「interesting」と「funny」で使い分けるようになっている。ただ単に「面白い」というのではなく、こういう文章や会話ではそれを明確に分けるような語を用意したりしていることが増えてきたかもしれない。というか最近"funny"の時に面白いをあまり使わずに純粋な笑いで表現することが増えてきたり、草やwなどでfunnyを表現することが増えてきたため単なる面白いがinterestingになってきている可能性はある。
草やw以外にも「そうなんだ……」の時の「……」のようにネット発祥の表現は一定数ある。リアルの人との会話中でそれを使うのが自然なのか不自然なの蟹一定数の疑問を覚えてきた。自分がネットに染まっている側の人間であるからの気にしている点ではあるのかもしれないが、ちょっと前はそんな表現はネットでしか見なかったはずだ。その点の是非についてネットで聞いてもあまり有用な意見が来る可能性も高くはないが少し気になっている。
「リアルの人」という表現は明らかなレトロニムだ。ネットの人ができたためそれを区別するために生まれた語だ。そのような言葉が市民権を得るようになってきたように新たな表現も市民権を得ていくのだろうか。
こうやってただ文章を連ねていると言葉遊び的な要素が多くなっている。ただ断じていうが文系ではない。言葉遊びが好きと文系は相関性が無いのかもしれない。なぜなのだろう。言葉が好きだと文章も好きであろうというのが単純な思考だ。ただ別にそうではない。それとも理系科目と言うのは言葉ができないと成り立たないのだろうか?だからと言って理系の人が文系が得意かと言えば別にそういうわけではない場合も多い。
そもそも理系/文系の区分が良くないのだろう。それの方がやりやすいのは百も承知だが、あれだけ計算を必要とする統計学や簿記が文系かと言われると少し怪しい所がある。そういう考えから改めていく必要があるのかもしれない。
ここで書くことがなくなったので終わろうとしたが、そうした場合文系と理系に一石を投じて終わるという何かと最後の主張が強い分になってしまう。
少し別の路線で話を攻めてから終わろう。
ただでも特に何も書くことが思い浮かばない。何も書くことが思い浮かばないから辞めたいはずなのにそれでもまだ書こうとしているからだ。
ここで思い出してほしい、最初の気づきは「ワードを与えられた時の生産性のない会話が得意」だ。ここでこそその真価を発揮するのではないのだろうか。例えばここでのワードとは「書くことがない」だ。書くことがないことについて書かなければいけないという少しややこしいことだが、そういうことを書いているとメタ的な視点で文章を構成することによって思ったより文字を稼げていることに気付けるはずだ。
ふと思ったが「文字を稼ぐ」という時の「稼ぐ」は収入を得るという意味と少し違うがあまり注目されていない。確かに何かを得るという意味では共通しているのかもしれない。ただ文字を稼ぐという表現は少し特殊で面白いと個人的に感じれた。時間を稼ぐも同じことが言えるだろう。
言葉って面白い。それに尽きる。