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【シェアハウス】生活にはお茶でもジュースでも水道水でもない水がいる話。【じこにっき】

家を出るための荷造りをしている時に姉に持たされた2リットルの水の話。
画像はペットボトルだと写り込みが怖いのでコップです。

受け取った時に、ああそういえば必要なんだった。って、そこで初めて思いました。

元々スーパーの無料のお水を貰ってくる文化が実家にはあったので、水道水以外の水がある方が良い、というのは認識としてあったのですが、手渡されたその時が、「生活には水がいる」という、私にとっての実感のこもった気づきでした。

言い尽くされた言葉ですが、当たり前に享受していたことって実は必要なものだったんだってすごく気が付きづらい。

現在は実家での方式に倣って、近所のスーパーに週に2、3回のペースで通っていて、今では生活のリズムを作っています。というか、作られているというか。

日本は上下水の環境がいいってのは信じているので、別に水道水でも事足りる。
けれど、やっぱり自分が必要であると感じ、選択し、今は生活の中に常にある。

だから、突き詰めて考えれば、全然本当は必要ではないのかもしれない。

水自体は生物が活動して、生きていく上で必要ですが、ミネラルウォーターである必要性は人間だから自分自身で選んでいるわけじゃないですか。
人によりけりで、自分の選択次第の必要、つまり、自分で採択する必要なのかなぁ、と。

そのほかにも沢山そういったものがあるなと思っていて、それは例えばたまのおかしだったり、ジュースだったり。
このブログだったり、物語書く事だったり、何かを好きでいる事だったり。それらを続けていくことだったり。

そうして突き詰めすぎると、自分が生きているという事を肯定できなければ、生きていること、それ自体も。

別に辞めてしまえば、辞めてしまった後の人生、或いは死があるだけなのですが、自分で生きることを日々選んでいる。死にたいという気持ちで目覚める日もあったことはありますが、結局は先のことだったり明日を想っている。

ままならない人生を生きていく中で、保証されていない未来に持っていきたい物は特に、自分で必要性を感じて自分で決めなければならないなって思っていて、だから先の目標を定める必要があるかなぁと。
けれど、結局、選べば縁取るものに流れを決められていく。深い河は読んでないですけどやはり人生は川の流れなのだなぁとか思ったり。
よがりで人生がどうこうなるとも思えないのですが、こうしたいっていう気持ちだけは離してはいけないなぁと思います。昨日の夜を引き継いだ今日の朝に一番に思うことを信じて常に生きていきたいです。今の自分には今自分が必要だと感じているこれらが必要なのだと思って。

また水の話で言うと、水を取りに行くせいで、買い物の頻度が逆に多くなり、あまり出かけるということを避けたい今、最適な解を自分の中で求めていたりします。

また、過剰になりたくない所もありますが、先を考えると、人に会えば会うほど細まる未来の可能性やリスクを考えたりとか、まだまだ全体のことや人目は気になりますよね。見られてないと思ってても、人って見てたりしますし。そんな社会が嫌なんですけど、気にはなりますよね。

ただ、感染症だけが人を死いたらしめるわけではないので、心を守る事が最優先事項なのだと思います。
閉じて守りに入るのではなく、開く心でできると尚更に良いですよね。

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