真・善・美って何だろう?
ちょっと前に社員と次のようなやりとりがあった。
社員:「体調不良で会社にこれないデザイナーがいるので、テレワークを実施しようと思います。」
僕:「それだけの情報じゃ、実施すべきか判断出来なくない?」
社員:「”真善美”で判断しろって言いましたよね!?」
このことに、なんだかとっても違和感を感じたので、
整理してみようと思った次第。
そもそも、『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』を読み、自分たちにも「真善美の判断基準を取り入れた方が良い」と感じた事が発端になっていて、まずはとっても面白い本なのでオススメを。
▼本のリンク
まず、この本の内容をスーパー簡潔にまとめてみる。
❐本のまとめ①
・現在は様々な要素が複雑に絡み合う不確実(VUCA)な世界だ。
→正解 のコモディティ化により、正解が乱立している世界
→システム変化にルールが追いつかない(法整備されてない)世界
・この世界では、論理的思考(サイエンス)だけでは答えを導けない。
なぜなら
①意思決定の膠着(選択肢の肥大化)
・情報がいくらあっても足りず、意思決定がいつまでも出来ない。
②差別化の限界(コモディティ化)
・論理思考は多くの人も行き着く考えなので、競争が激化する。
→結果、サイエンスだけでは疲弊し続けてしまう。
と、いうことは。。。
❐本のまとめ②
・白黒つかない物には直感(アート)を頼りにした方が良い。
→外部のモノサシ(論理思考/サイエンス)以外の新しい内部のモノサシ(直感/アート)を持つ必要がある。
→しかし、アート(直感)とサイエンス(論理)の主張が衝突すると必ずアートが敗北する。
→それを防ぐために組織全体が美意識を高めて行く必要がある。サイエンス側にもアート思考が必要であり、その為に美意識を鍛えなければならない。
美意識とは、以下の価値についての自分の評価軸のことである。
「真(Truth)」 直感・感性 何が正しいのか?
「善(Goodness)」道徳・倫理 何が良いのか?
「美(Beauty)」審美眼 何が美しいのか?
・直感(アート)だけを頼りにするのではなく、論理思考(サイエンス)とのバランスが大事である。
・悪とは、システムを無批判に受け入れることである。
※詳細を知りたい方はぜひ読んでみて下さい。
ざっくりとこんな感じだ。
それでは、整理を開始する。
社員:「体調不良で会社にこれないデザイナーがいるので、テレワークを実施しようと思います。」
僕:「それだけの情報じゃ、実施すべきか判断出来なくない?
社員:「”真善美”で判断しろって言いましたよね!?」
まず、この発言の中にある真善美は以下のようになるだろう。
・真:困っている社員を助けてあげることは正しいことだ!
・善:困っている社員を助けてあげることはとても良いことだ!
・美:困っている社員を助けてあげることはとても美しい!
まさに非の打ち所のない真善美である。
何やら良い事しかしていない匂いがプンプンである。
(まるでプールに塩素を入れた直後のようだ。)
ではなぜ僕はここに違和感を感じたのだろうか?
❐違和感の正体
・説得力がない
会社組織は営利団体であることから逃げられない。なので、まずはどこかに利益(お金だけでない)を設計しなければならない。だが、この会話には論理思考が全く無いために、利益へリーチするための説得力が皆無である。
・なんだか苦々しい
真善美だけで物事を判断するって「正しいやつは何をやっても良い」に似た毒を感じる。つまりアート(主観/直感)偏重はサイエンス(客観/論理)偏重と同じく苦々しい毒に思えてしまうのだ。
まとめ
結局僕の違和感は「アート」と「サイエンス」、言い換えると「直感/感覚」と「論理思考」のバランスが悪く伝わったことに他ならない。
大事なのは「両者のバランスが適切である」という事が再認識できて、とっても有益な考察になった。
今回のことに当てはめると、
❐どうすれば良かったのか?
◆サイエンス:そのデザイナーを助けるべきである理由を数字や論理的考察で伝える。(助けたいと思う”何か”をそのデザイナーが持ち合わせている事を伝える。)
◆アート:そのデザイナーを助けたいと思う気持ちがあり、かつ強い願いである、と同時にその事が誰か(何か)を加速させるかもしれない事を伝える。(例えば面白そうとか、ワクワクするとか「感情曲線が動きそうな想い」だと考える。)
この2つをバランス良く配合して伝われば、違和感は発生しなかったのだと考える。
ただ、ここで大事なのは、「サイエンス」と「アート」のバランスについて考えることだけではない。つまり、いくらバランス良い考察でも、正しく相手に伝わらなければ意味が無い事を忘れてはいけない。
最後に
そもそも、今回の違和感は、僕が「真善美を持ち、意思決定して行こう!」と提案した事が出発点である。ここで自戒の念を込めて、忘れては行けない点を3つ記述する。
①アート(直感)だけが大事なのではなくて、アート(直感)とサイエンス(論理思考)の両方が必要で、むしろ大事なのはバランスであり、その片方に偏重してしまうような伝え方をしてはいけない。
②そもそも各々が真善美を考え抜き、アート(感覚)を研ぎ澄まし、サイエンス(論理思考)とのバランスを取ることが大事なはずなのに、「真善美を取り入れよう!」と伝えると、その中身の深い考察なく、ある種盲目的に上澄みの「ほぼ僕の考えに引きずられた美意識っぽい何か」に飛びついてしまう人が出てくるのは、僕の伝え方が悪いことに他ならない。つまり、真善美が大事なのではなく、真善美とは何かを個々で考え抜き、正しくアウトプットし、必要であれば改善/アップデート出来るようになることが大事で、そういう伝え方をしなければいけない
③そもそも真善美(美意識/内部モノサシ)が意思決定の為のツールであるならば、いつも磨かれ続け、環境と共にアップデートされ続けなければならないにも関わらず、普遍的な個人の感情論みたいな物として認識される伝え方をしてはいけない。つまり深い考えなく「直感だけが大事!」的に思えるような、伝え方をしてはいけない。
結局、僕自身の伝えるスキルが足りなかった為に今回の違和感が生まれてしまった事は間違いなさそうだ。今後、僕はもっと「導きたい場所」に正しく短時間で到達でき、更にみんながモチベーションを高めていけるような『素敵な伝え方』を模索していくべきである。(僕のCPUでは無理ゲーに気もするが。。。)
コミュニケーション(伝えること)はとても奥が深く、難解で、永遠にたどり着かない航海に似た不安を持ち合わせている。
だが、次から次に湧き出るヒト(伝えること)への興味と好奇心が、それを止めることを許してくれそうにない。
きっと、僕はとってもヒトがスキなんだなと思う今日このごろ。