驍宗の足跡と嘉橋の戦闘
驍宗即位から半年後に文州で土匪の乱が起こり、驍宗が鎮圧するために親征軍を率いて轍囲に進行中に行方不明になった・・・という一連の流れのまとめを今行っています。その中で、琳宇到着後から失踪するまでと、その轍囲進行途中にある、嘉橋での土匪と王師の戦闘、嘉橋での驍宗目撃証言から、日数の齟齬?があるように感じて今混乱中です😅
単なる私の読解力が足りないだけかもしれないのですが、混乱している中での推論?は以下の用な感じです。一人で勝手に混乱しているだけかもしれないので、ご意見・ご感想伺えたら嬉しいです🙏
琳宇出立からの驍宗の足跡
文州琳宇周辺の地理を把握していないと難しいかと思うので、まずはこちらの図でおおよその地名と位置関係のご確認を・・・。
そこで、まず下記の原文記述。
「明けて翌日、軍は(琳宇から)豊沢に向けて動き始めた」
『白銀の墟 玄の月』第一巻 162頁
この「軍」は王師で、「英章軍・驍宗軍(阿選軍二師)・霜元軍の順で豊沢に向かって同時に(?これもよく書かれていないので、分からない・・・)進軍した。
次に、浮丘院の喜溢が驍宗捜索の援助として、浮丘院に滞在している荒民などから証言者を李斎らのもとに連れてきていた中の、証言。
証言:片足を引き摺った男(同巻353頁~)
土匪が街に雪崩れ込んできて、あっという間に県城を占拠した。
↓
それを追うようにして王師が入ってきて、七日ほどの戦闘の末に県城を奪還した。
↓
土匪が逃げ出したあと、開かれた県城に入る驍宗の姿を見た。
ここの「土匪が街に雪崩れ」という所ですが、この「街」は嘉橋?
だとすると、追うようにして王師が・・・というのは、王師を先に率いていた英章軍?
ですが、ここで問題なのが、「七日ほどの戦闘」という所。驍宗が行方不明になったのは、琳宇を出発して三日後なので、もしも、王師が琳宇を出発して数日後に嘉橋に着いて、それから七日間戦闘をして、県城を開放したのなら、驍宗が行方不明になったのは、その後となります(開放された県城に入る驍宗の姿を見た、というこの男の証言を信じるのならば)。
可能性として、驍宗や霜元軍が琳宇に到着する前に、琳宇郊外に陣営を設けていた英章が、嘉橋の土匪らを事前に制圧していた、とも大いに考えられるのですが・・・。
「嘉橋は・・・・・・驍宗が姿を消したちょうどその直前、主たる戦場になっていた場所だった。」(同巻353頁)
ともあるので、この「ちょうどその直前」が、個人的には、そこでの土匪制圧のすぐ前まで驍宗がいた、と捉えられる表現だと感じられ・・・。もしも、少しの間があるのであれば、「姿を消す少し前」や「姿を消す前に」・・・という表現にならないかと・・・。
また、嘉橋に県城がある、とはっきり記述されてもいないので、この男の言う、県城が具体的にどこのものなのかにもよるのですが・・・。
文州の乱に関して、「県城」の記述があるのは、古伯や轍囲で、古伯は琳宇から北の方向になるので、進軍方向とは違いますし、こちらを開放したのは、英章軍ということは明記されています(同巻148頁)。また、轍囲も目的方向なので、驍宗が琳宇を出発してから立ち寄る、ということもあり得ない。なので、ここの県城は嘉橋だというのが一番有力かな・・・と思われるのですが・・・。
兄弟で驍宗の後を追ったという別の男の証言から、驍宗が「嘉橋」かその近くの陣営に来ていたようでもあるので(陣営では姿を直接見たわけではないよう(同巻357頁))、驍宗は「嘉橋」までは人目につく場所には、まだ姿を見せていた、というのもはっきりしているように思う。
また、驍宗が県城に入る、七日ほど前に土匪が嘉橋に攻め入っていたなら、驍宗が琳宇到着時にそれが軍議に上がっていてもおかしくはないはず・・・。単に割愛されただけかもしれませんが、途中の嘉橋を制圧しつつ、豊沢・轍囲に向かう、と英章らとの軍議で言っていてもおかしくないのかと思ったり・・・(一巻の157頁あたり)。驍宗も、そこで戦況を聞いていたし。
辻褄を合わせるのであれば、英章軍が嘉橋の土匪制圧後に驍宗が琳宇に到着し、豊沢に向けて出発。その途中で嘉橋に立ち寄った・・・、と考えるのが一番自然なのだと思います。
うーん。でも、何となくしっくりいっていないのは私だけ・・・?
烏衡の耳打ちから隊列を離れるまで
これに関連しての個人的な別な疑問なのですが、私はてっきり、烏衡に耳打ちされてから、その後すぐに霜元に手勢を借り、轍囲に向かった・・・と思っていたのですが、この間も、実は二日程度の猶予があったと思われ。
というのも、烏衡と一般民が驍宗と話していたのは志邱の廟付近で、立地を考えると、この場面は、驍宗がまだ琳宇付近の陣営にいた時ではないかと思われる。
驍宗が霜元から密かに精鋭を借りたのは、失踪前夜(同巻165頁)なので、琳宇出立前に轍囲の里の民?からの陳情を聞いてから、二日ほど置いていた、ということになる。琳宇出発前に霜元に借りて、そのまま轍囲(本当は函養山)に向かわなかったのか・・・、という疑問も。
ルート的に嘉橋から龍渓の山道を使うことを、烏衡に事前に言われていたのであれば、嘉橋まで普通に進軍して、そこから向かおう、と思っていたのでしょうか。
驍宗と縁の深い轍囲の陳情なのに、その数日の間が個人的にはちょっと意外で。もちろん、この烏衡からの耳打ちを疑っていたのも、油断していたのも、驍宗の回顧場面から伺えるのですが、どちらにしても、失踪前の即決断行的な驍宗にそぐわないようにも感じられて(即決断行は私の勝手な先入観です・・・)。
轍囲の民のためだったら、直ぐに向かう気がするし、烏衡や阿選の策略を疑っていたのなら、霜元に密かに手勢を借りる以外に、その二日間中に他にも対策を講じていそうだし・・・。驍宗をかいかぶりすぎなのかしら😅
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ともかくも、このあたりの日数計算や時系列での整理が苦手なので、お時間ある方は、何らかのフィードバック頂ければありがたいです🙇🏻♀️
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